3日目①行き先を決める
昨夜の死闘の残滓が、部屋の空気と博の精神に重く澱んでいた。眠ったというよりは、気絶と覚醒を繰り返しただけに近い。首筋には、あの女の爪が触れた感触が幻のように残り、時折、背筋に冷たいものが走った。
夜明けと共に、彼はパソコンを開いた。しかし、昨日まで情報の濁流を吐き出していたSNSのタイムラインは、明らかにその流れが滞り始めていた。新しい投稿はまばらになり、そのほとんどが意味をなさない文字列か、救いを求める短い絶叫で途切れている。人類の巨大な神経網が、末端から壊死していくのを感じた。
断片的な情報から一つの確信が生まれていた。ボストンのような大都市は、今ごろおびただしい数の死者が徘徊する、巨大な墓場と化しているだろう。人口密度が高い場所ほど、感染の拡大は指数関数的に増大しているはずだ。日本へ帰るという目標は、もはや現実的な選択肢として機能しなかった。
このモーテルに留まることは、緩やかな死を待つことに等しい。昨夜の遭遇が、それを証明していた。部屋のドアは脆く、食料は有限。彼はポケットからくしゃくしゃになった観光地図を取り出し、テーブルの上に広げた。
指先が、モーテルの位置から町の中心部へと滑る。教会、ダイナー、数軒の小さな商店。その中で、一つの建物が彼の注意を引いた。「グレンフィールド・ギフトショップ」。観光客向けの土産物屋。そこならば、食料がある可能性が高い。チョコレート、ナッツ、瓶詰めのジャムやクッキーといった、保存性の高いカロリー源が。
さらに重要なのは、その立地と構造だった。町の中心を通るメインストリートに面しており、写真で見た記憶では、二階建てのレンガ造りの建物だったはずだ。屋上、あるいは二階の窓からならば、町全体の様子を、特にこれから向かうべき方角の安全を確認できるかもしれない。情報を得ること。それが、この世界で生き残るための最優先事項だった。目的地は、決まった。
博は昨日集めた食料を仕分け始めた。まず、持ち運びにかさばるパンや、開封済みのポテトチップスを口に詰め込む。味などどうでもいい。今はただ、体を動かすための燃料を補給するだけだ。水分を摂取し、残ったペットボトルの水をバックパックに詰める。スーツケースから、軽量で動きやすい服装を選び、着替えた。カロリーバー、缶詰、地図、そして情報源であるノートパソコンとモバイルルーター。バックパックを背負うと、肩にずしりと重みが乗る。重さは気になるが、捨てるという選択肢はなかった。
部屋の中を見回し、武器になりそうなものを探す。あるのは重いだけのフロアランプくらいで、実用的とは言えなかった。結局、彼は何も手にしなかった。最大の武器は、見つからないこと。音を立てず、気配を殺して移動することだ。
準備を終え、博は再びドアの覗き穴から外をうかがった。徘徊する死者の数は、昨日と変わらない。彼らの動きには知性のかけらもないが、予測不可能な分だけ、危険だった。いつ、この部屋を出るべきか。彼は、獲物を狙う捕食者のように、ただ静かに、その好機を待ち続けていた。心臓の鼓動だけが、やけに大きく部屋に響いていた。




