22日目①脱出
二人は、夜明けの最初の光が差し込むのを待って、ダンウィッチ村から脱出した。電気自動車は、霧深い谷底から丘の上へと続く坂道を、静かに、力強く登っていく。バックミラーに映る、歪んだ家々のシルエットが、どんどん小さくなっていく。悪夢そのものから遠ざかっていくかのようだった。
村を完全に抜け、再びアーカムへと続く主要道路に戻った時、博は自分の体が、そして精神が、明らかに軽くなっていくのを感じた。ダンウィッチの谷底に澱んでいた、あの息苦しいまでの圧迫感、不浄な視線が肌に粘りつくような不快な感覚が、霧が晴れるように消え去っていく。
「……気分が、いい」隣で、サラがぽつりと呟いた。彼女の顔にも、この数日間、常に浮かんでいた恐怖の影が薄れ、子供らしい血の気が戻っていた。
「ああ」博は頷いた。「あの村は、異常だった」
太陽が、ようやくその本来の力を取り戻し、暖かな光を地上に降り注いでいた。博は、道の脇の開けた場所に車を停めた。車の屋根に設置されたソーラーパネルが、貪欲にその光を吸収し始める。
「少し、休もう」
バッテリーの残量は35%。アーカムまでは、まだ距離がある。一気に進むのは危険だ。博は、新たな方針を決めた。「これからは、無理に進むのはやめよう。日中は日の当たるところで充電しながら休み、少しずつ進む。寝るのも、この車の中だ」
車中泊を繰り返しながら、ゆっくりと目的地を目指す。それは、最も安全で、最も効率的な旅の仕方だった。
安堵感からか、博はふと、もう何の役にも立たないと思っていたノートパソコンを開いた。ダンウィッチで途絶えた、世界との繋がり。彼は何かに導かれるように、ブラウザのアイコンをクリックした。
そして、息を飲んだ。
画面には見慣れたSNSのタイムラインが表示されていた。ネットワークアイコンには赤いバツ印はなく、衛星回線に接続されていることを示す、アンテナのマークが灯っている。
ダンウィッチの地形が、電波を遮断していたらしい。
世界と再び繋がった。その事実は、水も食料も見つけられなかった砂漠で、突如としてオアシスを発見したかのような、安堵と興奮を博にもたらした。
博はタイムラインをスクロールした。ダンウィッチを訪れる前と何一つ変わらない、生存者たちのとぎれとぎれの生存報告。意見の交換。他愛のないやり取り。
助かったのだと、博は自分に言い聞かせた。狂気じみたあの村の外では、誰もが当たり前の朝を迎えている。サラを無事に連れ出し、こうして太陽の光の下で日常へと還ってきた。胸を撫で下ろし、歓喜の息を吐き出すべき瞬間だった。
ディスプレイをスクロールする博の指先が、唐突に止まった。
画面を流れる言葉の数々が、まるで精巧に作られた張り子のように、ひどく薄っぺらく見えて仕方がなかった。自分たちが恐怖に震え、息を殺して夜明けを待っていたその間も、画面の向こう側では何事もなく時間が消費されていた。その途方もない落差が、冷たい違和感となって博の胃の腑にじわりと沈み込んでいく。
ふと、右足の足首が微かに疼いた。
こわばった足を緩めても、足首にこびりついた、あのタールのように黒い、泥のような感触だけが、皮膚を通じて焼き付いたように消えない。
博はゆっくりとノートパソコンを閉じ、フロントガラスの向こうを見上げた。
車窓から注ぎ込む日差しは暖かく、アーカムへと続く道は確かに伸びている。空はどこまでも青く澄み渡っていた。
それなのに、博の胸の奥底に巣食った暗い影は、少しも晴れなかった。
この眩しい陽光も、目の前の道路も、そして画面の向こうの生存闘争すらも――あの地下室で脈動していた絶対的な深淵の上に、薄氷一枚を張り詰めただけのかりそめの光景に過ぎないのではないか。
隣の助手席では、サラが双眼鏡で車の前方を探っている。
自分たちは本当に、あの悪夢の村を抜け出すことができたのだろうか。それとも、振り払ったつもりでいる闇そのものを、内に抱え込んだまま走っているだけなのだろうか。
喉元までせり上がってきた答えのない問いを無理やり飲み込み、博は静かにアクセルを踏み込んだ。快晴の空の下、電気自動車が立てるわずかな走行音だけが、耳障りなほど鮮明に鼓膜を震わせ続けていた。




