21日目①恐慌
屋敷から逃げ出した博は、ほとんど無我夢中で、雑貨店へと続くぬかるんだ道を走っていた。背後から、あの「リ・リ」という音が追いかけてくる幻聴に苛まれ、何度も足を滑らせ、泥にまみれた。
雑貨店のドアを叩くと、すぐに内側から鍵が開けられ、サラが心配そうな顔で彼を迎え入れた。「ヒロシ! 大丈夫!? 」
博は彼女の問いに答えることができなかった。ただドアに背をもたせかけ、ずるずると床に座り込んだまま、荒い呼吸を繰り返すだけだった。彼の瞳は焦点が合わず、その脳裏には、地下室の脈動する黒い塊とあの非人間的な鳴き声が、焼き付いたようにこびりついていた。
サラは彼のただならぬ様子に、それ以上何も聞かなかった。ただ、黙って水の入ったコップを差し出し、彼の隣に、不安そうに座っていた。
どれくらいの時間が経ったのか。博はほとんど意識が朦朧としたまま、時間を過ごした。サラが差し出す乾パンを意味も分からず口に運び、咀嚼する。その単純な生命維持活動が、少しずつ彼の精神を現実世界へと引き戻していった。
昼近く、ようやく頭を覆っていた濃い霧が少しだけ晴れてきた。彼は昨日の出来事を断片的に、冷静に振り返ることができるようになっていた。あの家には、人間ではない「何か」がいる。
この村は、危険だ。そのレベルが、徘徊する死者たちとは、根本的に違う。
「……行こう」
博は、呟くように言った。
「え?」サラが、彼の顔を覗き込む。
「車のバッテリーを確認しに行く」
彼の言葉には、有無を言わせない響きがあった。二人は、再び森の中に隠された車へと向かった。幸い、昨日の午後は晴れ間があったらしく、ソーラーパネルは静かにその役目を果たしていた。
ダッシュボードの充電モニターが示す数字は「41%」。アーカムまで辿り着くには、心許ない数字だった。理想を言えば、あと数日は、この森で充電を続けたい。
博は首を横に振った。彼の脳裏に、あの黒い塊と「リ・リ」という音が蘇る。
「ヒロシ、バッテリーはまだ……」
「分かってる」博はサラの言葉を遮った。「だが、ここには、もう一刻もいられない。アーカムまで持つかどうかは、賭けだ。でも、ここに留まるよりは、その賭けにのるべきだ」
屋敷で彼が垣間見たあれは、論理や理性で対処できるものではなかった。バッテリーの残量という物理的な問題と得体の知れない恐怖。天秤にかけるまでもなく、答えは出ていた。一刻も早く、この呪われた村から、脱出しなければならない。




