1日目②インターネット
ドアの向こうが完全に静まり返ってから、どれくらいの時間が経っただろうか。博は壁に背を預けたまま、自分の呼吸音だけがやけに大きく響く部屋の中で、動けずにいた。外の世界は沈黙している。しかし、その沈黙は安らぎではなく、底なしの恐怖を内包していた。
思考を、動かさなければ。彼は自分に言い聞かせ、ゆっくりと立ち上がった。スマートフォンが駄目なら、別の手段があるはずだ。博はスーツケースを引き寄せ、その中から緩衝材に包まれたノートパソコンを取り出した。幸い、この古いモーテルの部屋には、壁際に有線LANのポートが残されていた。埃をかぶったそれにケーブルを差し込むと、数秒の間をおいて、パソコンの画面隅にあるネットワークアイコンが接続状態を示した。
まず開いたのは、いつも見ている国際的なニュースサイトだった。トップページに並ぶ見出しは、昨夜、彼が眠りにつく前に見たものと何一つ変わっていなかった。ワシントンでの政治的な駆け引き、ヨーロッパ市場の動向、アジアの芸能ゴシップ。正常だった世界の痕跡が、化石のようにそこに残っていた。
次に彼はウェブメールのクライアントを開いた。宛先には、まず日本の両親のアドレスを。件名を「無事です」とし、本文に「こちらで何か異常事態が起きている。詳細は不明。また連絡します」とだけ、簡潔に打ち込んだ。次に、アダムのアドレス。「モーテルにいる。無事か?連絡をくれ」。送信ボタンを押す指が、微かに震える。返信が来る可能性は低いと頭では理解していた。それでも、送らずにはいられなかった。ボトルに詰めた手紙を、情報の荒波に放り込むような、絶望的な行為だった。
最後に、彼はSNSのサイトを開いた。キーワードを入力する検索窓に、彼はしばし躊躇った後、いくつかの単語を試した。「マサチューセッツ」「グレンフィールド」「アーカム」「異常」
タイムラインをスクロールする指が、途中で固まった。現れたのは、世界の断末魔だった。
短いテキスト、不鮮明な画像、激しく揺れる動画。それらが、無秩序な情報の濁流となって彼の目に流れ込んでくる。
『誰か、ボストンにいないか? 妻が、ドアを……』
『音を立てるな。奴らは音に集まる』
ロンドンの街角で、足を引きずりながら迫る老婆に警官が発砲する数秒の動画。夜の東京、品川駅を歩く、おびただしい数の生気のない人々の映像。サンパウロのスラムで、軍の装甲車が、ゆっくりと歩く人々の群れに突っ込んでいく衛星画像。地名と人種は違えど、そこで起きている現象は、恐ろしいほどに酷似していた。足を引きずり、生気のない目で、ただひたすらに生きている人間を求める「何か」。
博は背筋が凍るのを感じた。これは、この小さな町だけの出来事ではない。彼が知る文明社会が、世界のあらゆる場所で、同時に崩壊しつつあった。ミスカトニック大学への期待も、日本へ帰るという選択肢も、すべてが意味を失った。
窓の外は、いつの間にか日が落ちていた。モーテルのネオンサインが灯り、駐車場を照らす外灯がカーテン越しに感じられる。不完全な暗闇。部屋の中では、パソコンのモニターだけが、青白い光で彼の顔を照らし出している。その光の中に浮かび上がる自分の表情に、彼は何の感情も見出すことができなかった。ただ、受け入れがたい事実を前にした、空虚な器があるだけだった。
世界の終わり、たった一人、その終焉の夜に取り残された気分だった。




