1日目①老人
夢と現実の境界が曖昧な、重たい微睡みから引き剥がされ、博は目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む光が、やけに鋭い。時差ぼけのせいか、頭の芯が鈍く痛む。ベッドサイドのデジタル時計に視線をやると、赤い数字が「9:52」と表示していた。アダムとの約束の時間まで、もう10分もない。
「まずい」
焦りが思考を駆け巡り、彼はベッドから跳ね起きた。昨夜の期待感は、寝過ごしたという失態によって跡形もなく消え去っている。急いで着替えを済ませ、顔を洗いながら窓の外をうかがった。モーテルの駐車場には、アダムの古びたフォード・ピックアップは見当たらない。代わりに、見覚えのある人影がそこにあった。このモーテルの管理人である、腰の曲がった老人だ。
だが、その様子は明らかに常軌を逸していた。老人は、片足を引きずるようにして、目的もなく駐車場をのろのろと徘徊している。まるで、何か大切なものを落として探しているかのようだった。しかし、その視線はどこにも焦点を結んでいない。時折、体が不自然な角度に傾ぎ、倒れそうになるのを、ぎこちない動きで立て直す。その一連の動作には、人間的な意思が感じられなかった。
何かあったのだろうか。脳卒中か、あるいは持病の発作か。博はドアを少しだけ開け、声をかけた。
「大丈夫ですか」
呼びかけに反応して、老人はゆっくりと振り返った。その顔を見て、博は息を止めた。生気というものが一切感じられない。血の気の失せた皮膚は蝋のように白く、焦点の合わない瞳は濁ったガラス玉のようだった。口が半開きのまま、そこから「あ……」とも「う……」ともつかない、乾いた呼気が漏れる。そしてその体が、磁石に引き寄せられる鉄のように、博のいる部屋のドアへと向き直った。
異常だ。脳が警鐘を鳴らす。博は即座にドアを閉め、内側からロックとチェーンをかけた。直後、ドアに「ゴン」と鈍い何かがぶつかる衝撃が伝わる。一度、二度。それは攻撃というより、ただそこに障害物があるから、体をぶつけているかのような、無機質な響きだった。ドアの向こうから微かな、だが鼻を突くような古い機械油の匂いが漂う。
ドアに背を預けたまま、博は荒い呼吸を必死に整えた。何が起きている? あの老人は、病気などではない。もっと根源的な何かが、彼を内側から破壊してしまったように見えた。
震える手でスマートフォンを取り出す。まずアダムに。しかし、何度発信を試みても、呼び出し音すら鳴らずに無情にも通話は切れた。画面の左上には「圏外」の二文字。次に、Wi-Fiを探すが、モーテルのネットワークは影も形もない。日本の家族の顔が脳裏をよぎる。メッセージアプリを開き、短い安否を問う文章を打ち込むが、送信中のマークが虚しく回転し続けるだけだった。世界から、完全に切り離されてしまった。壁一枚を隔てた向こう側にいる「あれ」が、断絶の象徴のように思えた。
その時、テーブルの上に置かれた一枚の名刺が目に入った。昨夜、保安官が手渡してくれたものだ。藁にもすがる思いで、部屋の隅にある固定電話の受話器を取り上げる。幸い、ツーという発信音は聞こえた。彼は名刺に書かれた番号を、一つ一つ確かめるようにプッシュした。
コールが始まる。受話器を耳に当て、息を詰めて外の気配を探る。すると微かに、だがはっきりと、外から同じ呼び出し音が聞こえてくるのが分かった。そう遠くない。おそらくは保安官事務所だろう。
その音に気づいたのは、博だけではなかった。ドアを引っ掻くような、不快な音がぴたりと止んだ。博はそっとドアの覗き穴に目を当てる。レンズの向こうで、老人の姿をした「それ」が、電話の鳴る方角へとおぼつかない足取りで、静かに去ってゆくのが見えた。




