前夜
マサチューセッツ州、グレンフィールド。その町のモーテルの一室で、安藤 博はスーツケースの半分も荷解きしないまま、窓の外を眺めていた。地平線近くの空が、鈍いオレンジ色に染まっている。広く、静かな空だった。明日、ここで落ち合う予定の友人、アダムからの短いメッセージがスマートフォンの画面に表示されている。
『明日10時にモーテルの前で』
ミスカトニック大学の学生寮に入れるまでの仮住まい。そう割り切ってはいても、部屋の壁に染みついた微かなカビの匂いと、時折唸りをあげる小型冷蔵庫の低いモーター音が、彼の孤独を増幅させた。あと一週間。ここで静かに過ごせば、寮生活が始まる。そして夏休みが明ければ、工学部の講義、新しい友人。彼は胸の内で静かに高まっていく期待感を、深呼吸と共に鎮めた。
その時だった。コンコン、と控えめだが硬質な音で、部屋のドアがノックされた。
博は息を飲んだ。心臓がひときわ強く跳ねた。こんな時間に誰だろうか。アダムであるはずがない。彼はドアに歩み寄り、息を殺して覗き穴に目を当てた。レンズの向こう側、歪んだ視界の中に、ベージュの制服を着た恰幅の良い白人男性が立っていた。胸には金色のバッジが鈍く光っている。保安官、と彼は理解した。
緊張を悟られぬよう、ゆっくりとドアのロックを外し、数センチだけ開ける。
「何かありましたか」
男は日に焼けた顔に柔和な笑みを浮かべた。しかし、その目は鋭く博を観察しているように見えた。
「驚かせてすまない。このモーテルに滞在している方に、注意を促して回っているんだ」
保安官は、穏やかだがよく通る声で言った。「今朝方、近くの森で熊の目撃情報があってね。ゴミの管理には気をつけて、夜間の一人歩きは避けてほしい」
「熊……」博の口から、思わず声が漏れた。
「ああ、そうだ。この辺りでは珍しいことじゃないが、念のためだ」保安官はそう言うと、制服のポケットから一枚の名刺を取り出した。
「何か困ったことがあれば、ここに。事務所の番号だ。夜中でも繋がる」
博は差し出された小さな紙片を受け取った。「ありがとうございます。気をつけます」
「良い滞在を」短い言葉を残し、保安官は分厚い背中を向けて去っていった。ドアを閉め、再び鍵をかける。指先に残った名刺の感触が、やけに生々しい。彼はそれをテーブルの上に置き、先ほど届いたばかりの、まだ温かいピザの箱を開けた。チーズとサラミの匂いが、殺風景な部屋に広がる。
一切れを手に取り、無心で口に運ぶ。味を感じない。ただ、空腹だけが機械的に満たされていく。
熊。
熊が、この森のどこかを歩いている。その事実が、急に彼がどれほど遠い場所に来てしまったのかを改めて突きつけてきた。
しかし、その感覚はすぐに明日からの日々への期待に塗り替えられていく。アダムと合流し、アーカムの町を見て回る。ミスカトニックの古い校舎。最先端の工学設備。全てが彼の知的好奇心を刺激してやまなかった。
ピザをもう一切れ食べる気にはなれず、博は箱の蓋を閉じた。シャワーを浴び、簡素なベッドに体を横たえる。窓の外は、すでに日が落ちていた。虫の声だけが、世界の静寂を縁取るように響いている。心地よい疲労感と、未来への確かな希望を胸に、博は深い眠りへと落ちていった。




