16日目①出発
空は旅立ちを祝福するかのように、どこまでも青く澄み渡っていた。バッテリーの充電率は96%を示している。これ以上待つ理由も、躊躇う理由もなかった。博とサラは、最後に家の中を見回し、忘れ物がないことを確認すると、静かに玄関のドアを閉めた。もう、この家に戻ることはないだろう。
電気自動車は、生き物の呼気のように、かすかなモーター音を立てて滑り出した。変わり果てたグレンフィールドの町並みが、窓の外を音もなく流れていく。誰もいない家々、乗り捨てられた車、そして、時折視界の隅を横切る、かつて人間だったものたちの姿。そのすべてが、過去の記憶となり、車はアーカムへと続く道へと乗り出した。
「すごい。本当に、静かなんだね」
助手席に座るサラが、感心したように呟いた。彼女の手には、祖父の形見だという古い双眼鏡が握られている。彼女の役割は、前方の偵察だった。
車は、町の境界を抜け、緩やかな丘陵地帯へと入っていった。道の両脇には、ニューイングランドの秋の気配を漂わせ始めた森が広がっている。一時間ほど、順調に走り続けた時だった。
「ヒロシ、止まって」
サラの、緊張をはらんだ声が、車内の静寂を破った。博は、即座にアクセルから足を離し、ゆっくりとブレーキを踏んで、車を道の脇の茂みに隠れるように寄せた。
「何かいたか?」
「うん。道のずっと先。何か……建物みたいなのと、人が」
博はサラから双眼鏡を受け取ると、フロントガラス越しに、彼女が指し示す遥か前方にレンズを向けた。ダイヤルを回して焦点を合わせると、最初はぼやけていた光景が、徐々にはっきりとした像を結んでいく。
その光景に博は一瞬、息を飲んだ。希望が胸をよぎった。
道の真ん中に、コンクリートブロックと軍用車両で築かれた、検問所のようなものが見える。生き残った軍が、ここで避難民を保護しているのかもしれない。
しかし、その淡い期待は、次の瞬間には冷たい絶望に変わった。
検問所を徘徊している人影は、確かに数人いた。彼らは皆、ヘルメットをかぶり、分厚いボディアーマーを身に着けた、屈強な軍人だった。だが、その動きは、博がこの十数日間で嫌というほど見てきた、あの動きそのものだった。片足を引きずり、目的もなく体を揺らし、虚ろな視線はどこにも焦点を結んでいない。
秩序の最後の砦であるはずの軍隊も、内側から崩壊していた。彼らが身に着けた装甲は、今や、その腐りゆく肉体を守るための、皮肉な棺桶にしか見えなかった。
この道は塞がれている。
アーカムへの道は、始まったばかりで、早くも巨大な壁に突き当たってしまった。




