離れ
機会は、思いがけず早く訪れました。
五月の初め、透真様が柊のお父上に呼ばれ、一晩麻布の屋敷へ戻ることになったのです。母はその夜、祖母の枕元に詰めていました。祖母の容態が、このところ思わしくなかったのです。
夜半を過ぎ、屋敷が寝静まったのを確かめてから、私は寝所を抜け出しました。
手燭は持ちませんでした。月が明るかったからです。草履を履き、縁側から庭へ降りる。竹林へ続く小径は、昼間よりもずっと長く感じられました。夜露に濡れた草が足袋を冷たく湿らせ、竹の葉擦れの音が、誰かの囁き声のように耳にまとわりつく。
木戸の錠前に鍵を差し込むと、それは驚くほど滑らかに回りました。毎日、誰かが開け閉めしている錠前の手応えでした。
*
竹林の奥に、その離れはありました。
古い、平屋の小さな建物。屋根の瓦は苔に覆われ、軒は傾いている。その隣に、真新しい白木の一棟が寄り添うように建てられていました。春に造られた、格子の部屋。月の光の中で、その白さだけが、ひどく生々しく浮かび上がっていました。
古いほうの離れの板戸にも、同じ錠前がかかっていました。私は息を止め、鍵を回しました。
戸を開けた途端、臭いが溢れ出してきました。
饐えた汗と、垢と、排泄物と、それから、それらとは違う、甘く重たい何か。喉の奥がせり上がり、私は袂で口を押さえました。お腹の子が、内側から私を押し返すような気がしました。
暗闇の奥で、鎖の鳴る音がしました。
「……誰だ」
嗄れた声でした。人の声というより、古い木が軋む音に近い。
月明かりが、格子の窓から細く差し込んでいました。その光の中に、それは蹲っていました。
骨と皮ばかりの身体。伸び放題の白髪と髭。ぼろ布のような着物から覗く脛は、枯れ枝のように細く、その足首に、黒い鉄の輪が嵌まっている。輪のまわりの肉は瘤のように盛り上がり、てらてらと光っていました。
その人が、顔を上げました。
落ち窪んだ眼窩の奥の目が、私を見ました。長いこと、じっと。そして、震える唇が、ゆっくりと開きました。
「……志乃、か」
膝から力が抜けました。私は板の間に崩れ落ち、這うようにしてその人に近づきました。
目尻の皺。十の年に見上げた、あの笑うと目尻に寄る皺が、変わり果てたその顔の中に、確かに残っていました。
「お父様」
声が、声にならない。
「お父様、お父様……」
父の手が、私の頬に触れました。乾いて、ひび割れて、爪の濁った手。その指先が、私の涙を、そっと拭いました。
「大きくなった」と、父は言いました。「千鶴に、よく似ている」
*
それから父は、すべてを話してくれました。
柊の家が、何代にもわたって、鷺宮に息子を差し出してきたこと。それは家同士の古い取り決めであり、柊の家が没落したのも、鷺宮が裏で金を貸し、事業を潰し、婿を出さざるを得ないところまで追い詰めたからだということ。柊の当主たちはそれを知りながら、家名と引き換えに、息子を売り続けてきたこと。
婿は、跡継ぎの娘が生まれると、この離れへ移されること。世間には病死と届けられ、二度と外へ出ることはないこと。
「お前が生まれて、十年は猶予をもらえた」と父は言いました。「千鶴が、お母上に頼み込んでくれたのだ。娘が物心つくまで、せめてそばにいさせてやってくれと。だから、他の婿たちよりは、恵まれていた」
恵まれていた。この人は、この部屋で、そんな言葉を使うのです。
父は、壁を指しました。月明かりの中に、無数の線と、文字とが浮かび上がっていました。名前。帰りたいという言葉。誰かを呼ぶ声。
それから、床を。
「ここで死んだ者は、皆、この下にいる」
私は思わず、膝をついていた床板から身を引きました。爪で掻いたような溝が、何本も何本も、私の手のすぐそばを走っていました。
「お前のお祖母様の父親も、お祖父様も。皆、ここにいる。お前の母上も、お祖母様も、そのことを知っている。知っていて、この上を歩いて、毎日膳を運ばせている」
私は口を押さえました。吐き気が、波のように押し寄せてきました。
「隣の部屋は、見たか」
「……白い、新しい」
「あれは、透真のための部屋だ」
父の声は、静かでした。
「お前の子が生まれたら、あの若者はあそこへ入る。私が、ここへ入ったように」
*
「透真様は……このことを」
「知っている」
父は、私の目をまっすぐに見ました。
「全部、知っていて、婿に来た。あれは、何度もここへ来ている。お前が眠っている間に」
雪の上の足跡。夜半に寝所を抜け出す気配。血の滲んだ拳。あの凍えた目。
すべてが、一本の糸で繋がりました。
「志乃。あの若者を恨むな」
父は、私の手を握りました。骨ばかりの手に、思いがけないほどの力が籠っていました。
「恨むなら、この家を恨め。お前の母上を、お祖母様を。そして——」
父は、言葉を切りました。その目に、哀れみとも、苦しみともつかない色が浮かびました。
「お前自身を」
私は、自分の手を見ました。父の手に握られた、白くて、柔らかくて、一度も荒れたことのない手。この手で、私は何を享受してきたのでしょう。絹の着物。銀の簪。夜会の灯り。何不自由のない暮らし。そのすべてが、この床の下に積み重なった男たちの上に、築かれていた。
そして私のお腹の中には、次の当主が眠っている。
*
どうやって離れを出たのか、覚えていません。
気づいたとき、私は竹林の木戸の前に立っていました。月が傾き、空の端が白みはじめている。
木戸の向こうに、人影がありました。
手燭を持ち、寝間着の上に羽織を重ねた、母でした。
「見たのね」
母の声は、少しも揺れていませんでした。手燭の灯りに照らされた顔は、いつもの白磁の仮面のまま。
「……お母様は、お父様を」
声が掠れました。
「お父様を、愛していなかったのですか」
母は、しばらく私を見ていました。それから、ほんのわずかに、唇の端を持ち上げました。それは、私が生まれて初めて見る、母の本当の表情だったのかもしれません。
「愛していたわ」
母は言いました。
「だから、殺さずに、あそこへ入れたの」
手燭の炎が、明け方の風に揺れました。
「あなたも、いずれ分かるわ、志乃。鷺宮の女は、皆そうやって愛するの。あなたのお祖母様も、その前の方々も。そして、あなたも」
私は、その場に膝をつき、吐きました。胃の中のものを、すべて。夜露に濡れた草の上に。
母は、私の背をさすりもせず、ただ静かに見下ろしていました。
「部屋へ戻りなさい。身体に障るわ」
その声だけは、優しかった。お腹の子を案じる、優しい祖母の声でした。




