閑話三 離れの中
男は、壁に刻まれた線を数えていた。
一本、二本、三本、四本。五本目を斜めに引いて、ひと束。それが、柱の根元から天井近くまで、びっしりと壁を埋めている。最初の頃は几帳面に揃っていた線が、年を経るごとに歪み、乱れ、ところどころで途切れている。熱に浮かされて数え損ねた日。数える気力さえなかった日。
十二年。四千三百余りの線。
遼一郎は、それを指でなぞった。指先の爪は、とうに分厚く濁り、黄ばんでいた。
*
離れは、八畳ほどの座敷が一間きりだった。
窓は一つ。太い樫の格子が嵌められ、その向こうに竹林の緑が見える。光は竹の葉に濾されて、いつも水の底のように青白い。夏は蒸し、冬は凍える。火鉢は与えられていたが、炭は三日に一度しか来なかった。
右の足首には、鉄の枷が嵌められていた。
枷から伸びた鎖は、床柱に打ち込まれた鉄の輪に繋がっている。鎖の長さは、厠の板戸までと、窓の格子までとを、ぎりぎり届かせる程度。十二年のあいだに、枷の当たる肌は何度も破れ、膿み、また塞がり、今では足首のまわりだけが、木の瘤のように硬く盛り上がっていた。脛の肉はすっかり落ち、骨の形がそのまま浮いている。
この部屋で、遼一郎は一人ではなかった。
壁には、彼のものではない線が、他にもいくつも刻まれていた。彼が来るよりずっと前の、もっと古い線。それに混じって、名前が。
——柊 清次郎。
——柊 孝之。
——帰リタシ。
——志津子。志津子。志津子。
最後のは、誰かの妻の名だろう。あるいは、娘の。遼一郎は、それを書いた男の顔を知らない。けれど、その文字を見るたびに、自分の喉の奥からも同じ名を呼ぶ声が漏れそうになるのを、何度も堪えてきた。
床の板には、深い溝が何本も走っていた。爪で掻いた跡だ。入り口の板戸のほうへ向かって、いくつもいくつも。這って、這って、どこかへ行こうとした誰かの、執念の痕。
そして、梅雨の頃になると、床下から臭うのだった。
甘く、重く、湿った、土とは違う臭い。遼一郎は、それが何であるかを、離れに入れられた最初の夏に悟った。この部屋で死んだ男たちは、どこへも運ばれてはいない。菩提寺の名もない石の下ではなく、この床の、ほんの数尺下に、今も積み重なっている。
いずれ自分も、そこへ加わる。
*
千鶴が来たのは、最初の一年だけだった。
夜更けに、一人で。手燭を持ち、格子の向こうに立って、彼女は泣いた。声を殺して、肩を震わせて。あの白磁の侯爵夫人が。
——許して、とは言わないわ。
そう言って、彼女は格子の隙間から、小さな鈴を差し入れた。
——用があるときは、これを鳴らして。誰かが来るように、言いつけておくから。
それが、彼女が彼にしてやれた、たった一つのことだった。翌年から、彼女は来なくなった。母親に知れたのだろう。あるいは、自分で決めたのか。
遼一郎は、彼女を憎んだ。憎んで、憎んで、憎み疲れて、やがてそれもどうでもよくなった。今でも時折、鈴を鳴らす。用があるわけではない。ただ、この音が母屋のどこかで、彼女の耳に届けばいいと思う。届いて、ほんのひとときでも、眠れなくなればいいと。
*
その若者が初めて格子の外に立ったのは、冬の、婚礼から三日目の夜のことだった。
月明かりの中に浮かんだ顔を見て、遼一郎は最初、幻だと思った。柊の家の顔だったからだ。自分が若かった頃の、鏡の中の顔に、どこか似ていた。
——遼一郎叔父さん。
若者は、そう呼んだ。叔父ではない、父の従弟だと訂正する気力もなかった。凧の揚げ方を教えてやった、あの小さな子供。透真。
——なぜ、ここへ来た。
遼一郎は掠れた声で言った。十二年、誰とも言葉を交わしていない喉は、錆びた蝶番のように軋んだ。
——婿に来ました。あの家の、娘の。
——知っていて、か。
——知っていて、です。
透真は、格子を両手で握りしめた。その指の関節が、月の光の中で白く浮き上がっていた。
——必ず、終わらせます。この家を。
それから若者は、何度も来た。雪の夜も、雨の夜も。彼は遼一郎に食い物を差し入れ、水を飲ませ、外の話をした。柊の家のこと。没落の真相のこと。そして、鷺宮の娘のこと。
——どんな娘だ。
ある夜、遼一郎は訊いた。透真は、長いこと黙っていた。
——何も、知らない人です。
そう答えた若者の声に、遼一郎は、かつての自分の声を聞いた気がした。千鶴のことを誰かに訊かれたなら、自分もきっと、こんな声で答えただろう。
*
春になって、離れの隣で普請が始まった。
壁一枚隔てた向こうで、槌の音が響く。新しい部屋が造られている。格子の嵌まる窓。床柱に打ち込まれる、鉄の輪。
遼一郎は、それが誰のための部屋かを知っていた。あの若者も、知っているはずだ。
娘が、身籠ったのだ。
その夜、格子の外に現れた透真の右手は、血まみれだった。新しい部屋の、まだ乾ききらない壁を、何度も殴りつけてきたのだと言う。
——叔父さん。俺は、あの人を。
若者は、それ以上言えなかった。遼一郎も、何も訊かなかった。
ただ、一つだけ頼んだ。
——一度でいい。娘に、会わせてくれないか。
志乃。十の年に別れたきりの、娘。あの子がどんな女になったのか、この目で見たい。それだけが、四千三百の線を刻み続けてきた男に、まだ残っている、たった一つの望みだった。
透真が去った後、遼一郎は鈴を手に取った。
ちりん、と鳴らす。もう一度。もう一度。
届けばいい。千鶴にではなく、今度は、あの子に。




