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記録のない人

父の墓へ参りたいと言い出したのは、桜が散った頃でした。

 身籠ったことを、父にも知らせたい。そう言うと、母は少しのあいだ黙り、それから「好きになさい」とだけ答えました。止められると思っていた私は、拍子抜けしました。後になって思えば、母は、墓へ行ったところで何も分かりはしないと知っていたのでしょう。

 鷺宮の菩提寺は、瑞京の外れの小高い丘にあります。自動車を降り、お槇に支えられて石段を上ると、境内には散り遅れた八重桜が重たげに咲いていました。

*

 鷺宮家の墓所は、本堂の裏手の、ひときわ広い一画にありました。

 苔むした石塔がいくつも並び、その一つひとつに、歴代当主の戒名が刻まれている。初代、二代、三代——。どれも女の名です。私は手を合わせながら、ふと気づきました。

 夫婦墓が、一つもない。

 どの家の墓所にも、当主と並んでその連れ合いが眠っているものです。けれどここには、女たちの墓しかありませんでした。

「お父様のお墓は、どこ?」

 お槇は、墓所の隅を指しました。

 そこに、小さな石が一つだけありました。他の石塔の半分ほどの高さもない、名前すら彫られていない、ただの丸い自然石。その前に、萎れた菊が一輪だけ供えてありました。

「これが……?」

「旦那様方は、皆こちらに」

 皆。私は、その小さな石を見下ろしました。七代の当主に七人の夫。その全員が、この名もない石一つの下に。

*

 住職は、皺だらけの小柄な老人でした。

 茶を勧められ、庫裏の縁側で向かい合うと、私は単刀直入に訊きました。父の葬儀のこと。父の遺骨のこと。

 老住職は、長いこと湯呑みの中を見つめていました。

「若奥様。いえ、次のご当主様とお呼びすべきでしょうな」

「父は、本当にあの石の下に眠っているのですか」

「……拙僧がお預かりしておりますのは、ご位牌だけでございます」

「位牌だけ?」

「鷺宮様の旦那様方のご遺骨を、拙僧は一度もお預かりしたことがございません。先代の住職も、その前の住職も、そうだったと聞いております。ご葬儀はいつもお屋敷のうちで済まされ、こちらには、ご位牌と、幾ばくかのお布施が届くばかり」

 老住職は、そこで初めて顔を上げました。

「あの石の下には、何もございません」

 八重桜の花びらが、一枚、縁側に落ちました。

*

 帰りの自動車の中で、私はお槇の手を握りました。

「お槇。お父様は、どこにいらっしゃるの」

 お槇は、首を横に振りました。何度も。唇を噛みしめ、皺の深い目尻から、涙が一筋流れました。

「お許しくださいまし。お槇には、申し上げられません。申し上げれば、お槇は……」

 それきり、お槇は何も言いませんでした。

*

 その夜、私は母の書斎に忍び込みました。

 母は高辻伯爵家の茶会に出かけていて、戻りは遅くなるはずでした。透真様は、珍しく早くに休まれていました。私は手燭を一つだけ持ち、洋館の廊下を、歴代当主の肖像の前を、足音を殺して通り過ぎました。絵の中の女たちの目が、皆、私を追ってくるような気がしました。

 書斎の机の抽斗は、鍵がかかっていませんでした。中には、屋敷の出納を記した帳面が何冊も、年ごとに整然と並んでいました。

 私が探していたのは、父が亡くなった年の帳面でした。葬儀の費用、医者への謝礼、療養先への支払い。父がどこで、どのように亡くなったのか、せめてその手がかりだけでも。

 けれど、その年の帳面には、葬儀の費用はどこにも記されていませんでした。

 代わりに、その年の冬から、毎日欠かさず書き込まれている一行がありました。

 ——離レ 膳一。

 私は頁を繰りました。翌年も。その翌年も。毎日、毎日、同じ一行が続いている。離れ、膳一つ。十二年分の帳面を次々に開き、そのすべてに、同じ文字を見つけました。今年の帳面の、昨日の日付にも。

 膳一。一人分の食事。

 私の手が震えて、手燭の炎が揺れました。

 抽斗の奥に、もう一冊、ひどく古びた帳面がありました。表紙の文字は掠れ、紙は黄ばんで脆くなっている。祖母の代のものでした。開くと、そこにも同じ一行がありました。

 ——離レ 膳二。

 二人分。祖母の代には、二人がいたのです。

 私は帳面を閉じ、抽斗に戻し、手燭を吹き消しました。暗闇の中で、自分の荒い息遣いだけが聞こえました。

 あの離れに、誰かがいる。十二年前から、ずっと。

*

 寝所へ戻ろうとした廊下の角で、私はお槇と鉢合わせました。

 お槇は寝間着の上に半纏を羽織り、手には何も持っていませんでした。私を待っていたのだと、すぐに分かりました。

「ご覧になりましたね」

 暗がりの中で、お槇が囁きました。私は頷きました。

 お槇は、半纏の袂から、何かを取り出しました。私の掌に、それをそっと載せる。冷たく、重たい、真鍮の鍵でした。

「十二年、お槇がお膳を運んでまいりました」

 お槇の声は、震えていませんでした。

「奥様からお預かりした、合鍵でございます。お槇は、これを失くしたことにいたします。お叱りは、お槇が一人で受けます」

「お槇……」

「志乃様は、知らなければなりません。奥様が当主をお継ぎになる日まで、何も知らされなかったように、志乃様もそれまで何も知らされずにいれば、もう、手遅れになってしまいます」

 お槇は、私のお腹に目を落としました。

「お子がお生まれになる前に。どうか」

 そう言って、お槇は深く頭を下げ、暗い廊下の奥へ消えていきました。

 私は掌の鍵を握りしめました。指の骨が軋むほど強く。遠くで、鈴が鳴った気がしました。

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