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懐妊

庭の白木蓮が綻びはじめた頃、私は身籠りました。

 最初に気づいたのはお槇でした。朝餉の味噌汁の匂いに私が顔を背けたのを見て、お槇はしばらく黙っていましたが、やがて「お医者様をお呼びしましょう」と言いました。その声が、なぜか泣き出しそうに聞こえました。

 往診に来た老医師は、脈を取り、二、三のことを訊ね、それから母のほうへ向き直って深々と頭を下げました。

「おめでとうございます。ご懐妊でございます」

*

 その日から、屋敷の空気が変わりました。

 女中たちは私を壊れ物のように扱い、廊下ですれ違うたびに頭を下げて「おめでとうございます」と言う。台所には滋養のある食材が山のように届き、帝都の呉服屋が産着の反物を持って次々にやってきました。

 何より驚いたのは、母でした。

 あの冷たい母が、私の部屋を訪れ、私の手を取って「よくやりましたね」と言ったのです。その声は、私が覚えている限り一度も聞いたことのないほど柔らかでした。母は私のお腹にそっと掌を当て、長いこと、じっとしていました。

「女の子だといいわね」

「お母様は、もう女の子だとお思いですか」

「鷺宮には、女の子しか生まれないのよ。不思議なことに、昔からそうなの」

 母は微笑みました。けれどその微笑みの奥に、私は何か、深い井戸の底を覗き込むような暗さを見た気がしました。

 祖母からは、病床から使いが来ました。古い桐の箱に収められた、鷺の紋を彫り込んだ銀の簪。添えられた紙には、震える筆で一行だけ。

 ——これで、鷺宮は続く。

*

 透真様には、母が告げました。

 私は自分の口から伝えたかったのですが、母が「当主から婿へ伝えるのが、この家の習わしです」と言ったのです。夕刻、透真様が外出から戻られると、母は彼を居間に呼び、扉を閉ざしました。

 私は廊下で待っていました。扉の向こうから、母の声が低く聞こえます。言葉までは聞き取れない。透真様の声は、一度も聞こえませんでした。

 やがて扉が開き、透真様が出てきました。

 私は彼に駆け寄ろうとして、足を止めました。

 彼の顔には、何もありませんでした。喜びも、驚きも、戸惑いも。まるで顔という顔から、すべての表情を拭い取ってしまったかのように、のっぺりと白い。夜会であれほど自在に笑ってみせた人と、同じ人だとは思えませんでした。

「透真様……」

 呼びかけると、彼はゆっくりと私を見ました。そして、まるで誰かに糸で吊り上げられたように、口の端を持ち上げました。

「おめでとう、志乃」

 それは、笑顔の形をしているだけのものでした。

*

 その夜、透真様は私に触れませんでした。

 身籠ったのだから当然です。医師にもそう言われていました。けれど彼は、私の隣に横たわったまま、いつまでも眠ろうとしなかった。私が目を覚ますたびに、彼は暗闇の中で目を開けて、天井を見つめていました。

「眠れないのですか」

 三度目にそう訊いたとき、彼はやっと私のほうへ顔を向けました。

「志乃。触れてもいいですか」

「……はい」

 彼の手が、夜着の上から、私のお腹に置かれました。まだ少しも膨らんでいない、平らなお腹に。母の掌とは違う、大きくて、骨ばった、温かい手。

 その手が、かすかに震えていました。

「この子は」と、彼は言いました。「何も知らずに育つのでしょうね。あなたのように」

「何を、ですか」

 彼は答えませんでした。代わりに、私を引き寄せ、髪に顔を埋めました。彼の息が、私の地肌を温める。

「あなたは、どうして」

 くぐもった声が、髪の中から聞こえました。

「どうして、あの女たちと同じ顔をしているのに、こんなに……」

 言葉は、そこで途切れました。

 あの女たち。それが誰のことなのか、私は訊くことができませんでした。訊いてしまえば、何かが壊れてしまう気がしたのです。彼の腕の中で目を閉じ、私は、彼の心臓の音を数えました。速く、乱れた鼓動でした。

*

 それから半月ほど経った頃のことです。

 朝の散歩の途中、私は庭の奥から、槌の音が聞こえてくるのに気づきました。

 竹林のほうからでした。木を削る音、釘を打つ音。それに混じって、男たちの話し声。あの錠前のかかった木戸の向こうで、何かが造られている。

 私はお槇に訊きました。お槇は、目を合わせずに答えました。

「離れの修繕でございます。お祖母様が、ご病気のために静かな場所へお移りになるかもしれないと、奥様が」

「お祖母様が?」

「……はい」

 お槇の声は、平らでした。何度も練習した台詞を読み上げるように。

 その日の夕刻、私は渡り廊下の窓から、職人たちが竹林から出てくるのを見ました。肩に担いだ材木の切れ端、道具箱。最後に出てきた職人頭らしい男が、迎えに出た母に何か報告している。母は頷き、懐から包みを出して男に渡しました。

 風に乗って、男の声が切れ切れに届きました。

「——新しい部屋のほうは、ご注文の通り、格子を——」

 格子。

 病人の療養のための部屋に、なぜ格子が要るのでしょう。

 私は窓辺に立ち尽くしたまま、知らず知らずのうちに、自分のお腹に手を当てていました。そこに宿った小さな命が、この家に何を連れてきたのか。それを、私はまだ知らなかった。

 ただ、その夜も透真様は眠らず、夜半にまた寝所を抜け出していきました。そして明け方近くに戻ってきた彼の右手の拳は、皮が剥け、血が滲んでいました。

 何かを、何度も、何度も殴りつけたかのように。

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