閑話二 母と祖母
奥座敷には、薬湯と、老いた身体の匂いが澱んでいた。
鷺宮千鶴は、母の枕元に端座していた。床に横たわる鷺宮多恵は、この二年でひと回りもふた回りも小さくなった。それでも、落ち窪んだ眼窩の奥で光る目だけは、若い頃と少しも変わらない。
「志乃が、竹林へ行ったそうだね」
多恵が言った。掠れた声だった。
「お槇が止めました。木戸には触れていません」
「鈴の音を聞いたのだろう」
「……はい」
多恵は、薄い唇を歪めた。笑ったのだと、千鶴には分かった。
「あれに鈴を持たせたのは、お前だったね、千鶴」
千鶴は答えなかった。
「飯を運ぶ者が来たら鳴らせと。用があれば鳴らせと。優しいことだ。おかげで、娘の耳にまで届くようになった」
「取り上げますか」
「好きにおし。どうせ、もう長くはあるまい。十二年だよ。よく保ったものだ」
十二年。千鶴は膝の上で重ねた手に、目を落とした。
*
「婿のほうは、どうだい」
「申し分ありません。社交界の受けもよく、私にも、志乃にも従順です」
「従順、ね」
多恵は、天井の木目を見上げた。
「柊の男は、皆そうだよ。最初はね。お前の父親もそうだった。その前の男たちも、皆そうだった。従順で、優しくて、女の扱いがうまい。それが、あの家の男たちの役目なのだから」
「存じております」
「だが、時々、知恵の回る奴がいる」
多恵の目が、ゆっくりと千鶴に向けられた。
「先々代の婿を覚えているかい。私の父親だよ。お前が生まれる前の話だけれどね。あれは、離れに移される前の晩に、屋敷から逃げようとした」
「お話には、伺っております」
「話だけだろう。私は見たんだよ。庭師たちが、あの男を竹林の奥へ引きずっていくのを。それから、私の母が、自分の手で、あの男の両の足の腱を切るのを」
行灯の芯が、じじ、と鳴った。
「血がね、雪の上に、まるで椿を散らしたようだった。あの男は、それから三十年、離れで生きた。這うことしかできずにね。床板に、爪の跡が残っているだろう。あれは、あの男のものだよ」
千鶴の顔色は、少しも変わらなかった。変わらないように、四十六年かけて躾けられてきたのだ。
「透真に、その気配はありません」
「なければいい。あっても、やることは同じだ」
*
「志乃には、いつ知らせるつもりだい」
「当主を継ぐ日に。私が、お母様にそうされたように」
「子が生まれてからだね」
「はい。子が生まれれば、婿は離れへ移ります。志乃が知るのは、その後です」
そう、すべては順番通りに。娘は何も知らぬまま婿を迎え、何も知らぬまま子を宿し、子が生まれ、婿が「病」に倒れた後で、初めて真実を聞かされる。そのときにはもう、何もかもが手遅れになっている。娘は泣くだろう。母を憎むだろう。けれど最後には、受け入れる。鷺宮の女は皆、そうしてきた。
千鶴自身が、そうだったように。
「千鶴」
「はい」
「お前、まだ、あれのところへ行っているのかい」
ほんの一瞬だけ、千鶴の睫毛が震えた。
「いいえ。最初の一年だけです。もう十一年、顔を見ておりません」
「それでいい。情を移すんじゃないよ。お前は遼一郎のとき、危なかった」
「心得ております」
多恵は満足げに目を閉じた。
「志乃は、私に似ている。顔も、気性も。あの子は、よい当主になるよ」
*
母の部屋を辞した千鶴は、暗い廊下を一人で歩いた。
洋館へ続く渡り廊下の途中で、足を止める。硝子窓の向こうに、雪に埋もれた竹林が黒々と沈んでいた。その奥にあるものを、彼女は見ない。見ないように、十一年を過ごしてきた。
ちりん、と。
遠くで鈴が鳴った。
千鶴は、硝子に額を押し当てた。冷たかった。誰にも見られていないその場所で、白磁の侯爵夫人と呼ばれる女は、しばらくのあいだ、じっと動かずにいた。
やがて顔を上げたとき、その横顔には、もう何の表情も残っていなかった。




