離れの鈴
あの音が鈴だと気づいたのは、二月の、ひどく冷え込んだ朝のことでした。
透真様が早くから出かけられ、私は一人で母屋の縁側に出ていました。庭は一面の雪で、池は薄く凍り、松の枝が白い重みに撓んでいる。吐く息まで凍りそうな静けさの中で、それは聞こえました。
ちりん。
夜に聞いたときより、ずっとはっきりと。鈴の音です。神社の本坪鈴のような重いものではなく、もっと小さな、たとえば猫の首につけるような、細く澄んだ音。
音は、庭の奥から聞こえてきました。
*
鷺宮の庭は広く、母屋の裏手から先は鬱蒼とした竹林になっています。幼い頃から、そこへ入ってはいけないと言われていました。竹の根に足を取られる、蛇が出る、古井戸がある。理由はその都度違いましたが、私は言いつけを守る子供でした。
けれどその朝、私は草履のまま庭に降りました。
雪を踏む音が、やけに大きく耳に響きます。竹林の入り口には、苔むした竹垣が巡らされていて、その切れ目に古い木戸がありました。木戸には、私の掌ほどもある真鍮の錠前が下がっている。錠前は、雪の中でそこだけ妙に新しく光っていました。
木戸の手前の雪の上に、足跡がありました。
大きな、男の人の靴の跡。それが木戸の前まで続き、少し立ち止まったように乱れて、また母屋のほうへ戻っている。昨夜は雪が降っていましたから、これは夜半から明け方にかけてついたものです。
この家に、男の人は透真様しかいません。
ちりん、とまた鈴が鳴りました。竹林の向こう、木戸の奥から。
私は木戸に手をかけようとしました。
「志乃様!」
鋭い声に振り返ると、お槇が雪の中を転がるようにして駆けてくるところでした。息を切らし、顔は紙のように白い。お槇は私の腕を掴み、ほとんど引きずるようにして木戸から引き離しました。
「なりません。ここへ来てはなりません」
「お槇、あの鈴は何なの。この奥に何があるの」
「何もございません。何も……」
お槇の指が、私の腕に食い込んでいました。痛いほどに。その手が、婚礼の朝と同じように震えていました。
*
その日の午後、私は母の居間に呼ばれました。
母は窓辺の長椅子に座り、刺繍の枠を膝に置いていました。私が入っても顔を上げず、針を運ぶ手を止めもしない。部屋は暖炉の火で暖かいのに、私は背筋が冷たくなるのを感じました。
「竹林へ行ったそうね」
「……はい。鈴の音が聞こえたので」
「鈴」
母の針が、初めて止まりました。
「あの奥には、古い離れがあるの。お祖母様の代に、流行り病に罹った者を隔てておくために使った場所よ。今も穢れが残っている。だから誰も近づけないようにしてあるの」
「でも、鈴が」
「風で鳴るのでしょう。古い風鈴か何かが、軒に残っているのよ」
二月の雪の朝に、風鈴。
私が黙っていると、母は刺繍の枠を脇に置き、立ち上がって私の前に来ました。そして、私の頬に手を当てました。白く、冷たく、少しも荒れたところのない、美しい手。
「志乃。あなたはもう、子供ではないの。いずれこの家を継ぐ身なのよ」
「はい」
「当主は、知るべきことを、知るべき時に知る。それまでは、言われたことを守りなさい」
知るべき時。
母の指先に、少しだけ力が籠りました。
「二度と、あそこへは行かないこと。いいわね」
母の目は、私を見ているようで、私の後ろにある何かを見ているようでもありました。透真様のあの夜の目に、少しだけ似ている、と思いました。
*
その夜、私は透真様に訊きました。
寝所の行灯の下で、彼は書物を読んでいました。私が隣に座っても、頁を繰る手を止めない。
「昨夜、お庭に出られましたか」
「いいえ」
即答でした。
「竹林の木戸の前に、足跡がありました」
「では、誰か別の者でしょう。植木屋か、出入りの者か」
「夜中に、ですか」
透真様は、ゆっくりと書物を閉じました。それから私のほうを向き、静かに微笑みました。
「志乃。何をお疑いですか」
「疑ってなど……」
言いかけた言葉は、唇で塞がれました。
いつもの口づけではありませんでした。息ができないほど深く、逃げ場を奪うように。押し倒された背に、布団の冷たさが染みる。夜着の襟が乱暴に開かれ、彼の手が肌の上を這う。その性急さに、私は思わず彼の胸を押し返しました。
「透真様、待って——」
彼の手が、私の両の手首をまとめて掴み、頭の上に縫い留めました。
見上げた彼の顔は、影になってよく見えませんでした。ただ、手首を掴む力の強さと、荒い息遣いだけが伝わってくる。怖い、と思いました。この人を、初めて。
けれど同時に、私の身体の奥で、それとは違う何かが疼いていました。恐れと同じ場所から湧き上がる、名づけようのない熱。彼の唇が首筋を辿り、鎖骨を噛むように吸うたび、私の喉から漏れる声は、拒む声ではなくなっていきました。
そういう自分が、ひどく恥ずかしかった。
彼は私を貪りました。そうとしか言いようがない。何かを確かめるように、あるいは何かを罰するように。私は彼の下で何度も震え、そのたびに、自分がどこへ連れて行かれるのか分からなくなりました。
すべてが終わったとき、透真様は私の手首を放し、そこに残った赤い指の跡を見下ろしました。
彼の顔から、すうっと色が引いていくのが分かりました。
「……すまない」
絞り出すような声でした。彼は私の手首に、そっと唇を当てました。一つひとつの痣を、詫びるように。
「すまない、志乃。あなたに、こんな」
私は何も言えませんでした。怒るべきだったのかもしれない。泣くべきだったのかもしれない。けれど私は、ただ彼の頭を胸に抱きました。彼の肩が、小さく震えていたからです。
どちらが本当のこの人なのか。優しい人なのか、怖い人なのか。それとも、どちらでもないのか。
*
夜半、私は眠ったふりをしていました。
やがて隣で、透真様がそっと起き上がる気配がしました。衣擦れの音。襖が音もなく開き、閉じる。廊下を遠ざかっていく、忍ばせた足音。
私は布団の中で、目を開けたまま息を殺していました。
どれほど経ったでしょう。遠く、庭の奥のほうで、鈴が鳴りました。
ちりん、ちりん、と。いつもより長く。まるで、誰かを呼んでいるかのように。




