夜会の噂
年が明けて松の内が過ぎた頃、私たちは夫婦として初めて夜会に招かれました。
招き主は高辻伯爵家。帝都でも指折りの社交好きで知られる家で、毎年この時期に開かれる新年の舞踏会には、爵位を持つ家々のほとんどが顔を揃えます。鷺宮の新しい婿を、皆が値踏みしに来る。母はそう言って、私に薄紫の夜会服を仕立てさせました。
自動車の窓から見る瑞京の街は、ガス灯の光を雪が照り返して、どこまでも白く滲んでいました。隣に座る透真様は、燕尾服の襟を正しながら、私の手袋の釦がひとつ外れているのに気づき、黙って留めてくださいました。
「緊張していらっしゃる」
「いいえ。透真様こそ」
「私は、慣れていますから」
何に慣れているのか、訊こうとしてやめました。没落した家の長男が、どんな目で見られてきたのか。それを私が問うのは、あまりに残酷な気がしたのです。
*
高辻邸の大広間は、硝子の燭台と、楽団の奏でるワルツと、絹擦れの音とで溢れていました。
透真様は、見事なものでした。年嵩の侯爵には礼を尽くし、若い令嬢たちには如才なく笑いかけ、母の古い友人には柊の家の不運を自ら軽く笑い話にしてみせる。誰もが、最初はどこか意地の悪い好奇の目を向け、そして半刻もしないうちに、感心したような顔になりました。
母は、扇の陰からそれを見ていました。満足げに。まるで、よく仕込まれた馬の品評会を眺めるように。
私は透真様と一曲だけ踊りました。彼の手は腰に添えられ、私を導くその足運びには少しの迷いもない。見上げると、彼は私を見下ろして微笑んでいました。初夜のあの凍えた目など、やはり私の見間違いだったのだ。そう思えるほど、穏やかな笑みでした。
*
踊り疲れて、私は一人、化粧室へ向かいました。
衝立の向こう側で、ご婦人方の声がしていました。私が入ってきたことに気づかなかったのでしょう。
「——本当に、お気の毒なことね。あんなに綺麗な方なのに」
「柊の家も、よくまあ二代続けて」
「あら、二代どころではなくてよ。うちの祖母が言っていたもの。鷺宮の旦那様は、昔から長生きなさらないって」
「先代様の旦那様も、その前も、皆お若くして病で……」
「そうそう。それに、お葬式も身内だけで、誰もお顔を拝んだことがないんですって」
くすくすと、忍び笑いが漏れました。
「呪われているのよ、あの家は。女ばかりが長生きして」
「しっ。滅多なことを」
私は、衝立に手をついたまま動けませんでした。
鷺宮の旦那様は、長生きしない。
父のことを思いました。胸を患って、屋敷の外へ移り、そのまま帰らなかった父。棺の中を見せてもらえなかった葬儀。それから、肖像画の一枚もない洋館の廊下。
衣擦れの音がして、ご婦人方が出て行きました。私は鏡の前に立ち、自分の顔を見ました。白粉の下で、頬から血の気が引いているのが分かりました。
*
帰りの自動車の中で、私はずっと黙っていました。
窓の外を流れる雪を見ていると、透真様が静かに言いました。
「何か、お聞きになりましたね」
驚いて振り返ると、彼は前を向いたままでした。
「化粧室から戻られてから、お顔の色が違う」
「……鷺宮の婿は、長生きしないと」
口にしてしまってから、私は後悔しました。新婚の夫に向かって言うことではない。けれど透真様は、可笑しそうに小さく息を漏らしました。
「それは困りましたね」
「笑いごとではありません。私の父も、早くに亡くなりました。祖母の夫も、その前も……」
「ご病気だったのでしょう」
「ええ。そう聞かされています」
「では、偶然です。古い家には、そういう噂がつきものですよ。柊の家にだって、いくらでもある」
彼は私のほうへ向き直り、手袋越しに私の手を取りました。
「長生きしてみせましょう。あなたが呆れるほど」
その言葉は優しかった。けれど、なぜでしょう。私は、彼が一度も「噂など嘘だ」とは言わなかったことに、後になって気づいたのです。
*
その夜、透真様はいつになく性急でした。
寝所に入るなり、夜会服の背の釦を外す指がもどかしげで、私が振り返る間もなく、うなじに唇が押し当てられました。熱い息。耳のすぐ後ろで、低く名を呼ばれる。
コルセットの紐が解かれ、締めつけられていた胸に冷たい空気が触れたかと思うと、すぐにそれは彼の掌で覆われました。初夜のときのような、壊れ物を扱う手つきではありません。確かめるように、刻みつけるように、私の身体の輪郭をなぞっていく。
布団に倒されたとき、私は彼の顔を見上げました。
行灯の灯の下で、彼は私を見ていました。今度は確かに、私を。けれどその目にあるのは、愛しさなのか、それとも別の何かなのか、私には分かりませんでした。何かを振り払おうとするような、何かに抗うような、ひどく苦しげな目でした。
私は彼の首に腕を回しました。訳も分からないまま、その苦しさごと抱き寄せたいと思ったのです。
彼の身体が私の中に沈んでくるたびに、噂の声が遠のいていきました。呪いも、病も、肖像画のない廊下も、何もかも。ただ彼の重みと熱と、汗の匂いと、喉の奥で押し殺される彼の声だけがありました。
果てた後、透真様は長いこと私の肩に額を押しつけたまま、動きませんでした。
「透真様?」
「……少しだけ、このままで」
掠れた声でした。私は彼の髪を撫でました。この人もまた、何かを恐れているのかもしれない。噂を笑ってみせながら、本当は。
そう思ったとき、屋敷の奥で、またあの細い音がしました。
ちりん、と。
私の肩の上で、透真様の身体が、ほんのわずかに強張りました。




