閑話一 婚礼の夜
女が眠りに落ちたのを確かめてから、柊透真は身を起こした。
行灯はとうに消え、雪明かりだけが障子をぼんやりと白く浮かばせている。その薄明かりの中で、彼は傍らに眠る妻の顔を見下ろした。
鷺宮志乃。二十二歳。鷺宮侯爵家の、次の当主。
あどけない寝顔だった。乱れた髪が頬に張りつき、唇がわずかに開いている。つい先刻まで、この腕の中で震え、縋りつき、何度も彼の名を呼んだ女だ。
——何も知らない顔だ。
透真は、己の掌を見た。この手で女の頬を撫で、髪を梳き、肌を拓いた。優しくするのは容易いことだった。何をどうすれば女が怯えを解くのか、彼は知り尽くしていたし、そのために必要な辛抱強さも持ち合わせていた。
ただ一度だけ、しくじった。
女が背に腕を回してきたとき、ほんの一瞬、彼は自分がどこにいるのかを忘れた。いや、思い出してしまったのだ。この屋敷の奥に何があるのかを。
見られただろうか。
見られたとしても構わない、と透真は思った。この女は、見たものを疑うことを知らない。そういうふうに育てられている。鷺宮の女たちは、代々そうやって、娘の目と耳を塞いできたのだ。
*
遠くで、鈴が鳴った。
ちりん、と一度。間を置いて、もう一度。
風の音に紛れてしまうほど細い音だった。志乃は身じろぎもしない。けれど透真の耳は、その音を聞き逃さなかった。聞き逃せるはずがなかった。
彼は目を閉じ、十五の年の夏を思い出した。
麻布の屋敷の、黴臭い蔵の中。父の目を盗んで開けた長持の底に、それはあった。柊の家の歴代当主が、鷺宮と交わしてきた取り決めの書付。墨の色が褪せたもの、まだ新しいもの。そこには何人もの男の名が並び、そのどれもが、柊の家から鷺宮へ婿に出され、やがて「病死」した者たちだった。
その最後に、遼一郎の名があった。
幼い透真に凧の揚げ方を教えてくれた、父の従弟。陽気で、手先が器用で、笑うと目尻に皺の寄る人だった。鷺宮へ婿入りしてから一度も柊の家へ戻らず、透真が十五になる前の冬に、胸を患って死んだと聞かされていた。
書付の余白に、父の筆で一行だけ、こう添えられていた。
——静養ニ入ル。存命。
あの日から十二年。透真は、この屋敷の門をくぐる日のためだけに生きてきた。
*
父は知っている。知っていて、自分を差し出した。家名と、抵当に入った屋敷と、明日の米のために。
婚礼の席で父と目が合ったとき、透真は何も感じなかった。怒りすら、もう擦り切れていた。あの男は、これまでの柊の当主たちと同じことをしたに過ぎない。
だから自分は、これまでの婿たちと同じ道は辿らない。
この家の血を、この家の名を、この屋敷ごと、終わらせる。
そのためには、まず鷺宮の女たちを信用させなければならない。従順で、穏やかで、当主の娘を慈しむ、申し分のない婿として。跡継ぎが生まれるまでの、限られた時間のうちに。
透真は再び、眠る志乃を見た。
この女もまた、鷺宮の女だ。この家の血を引き、この家の名を継ぎ、いずれは己の娘に同じ嘘をつくのだろう。母や祖母がそうしてきたように。
憐れむ理由は、どこにもない。
そう思いながら、透真は無意識のうちに、志乃の肩までずり落ちた掛け布団を引き上げていた。指先が彼女の髪に触れ、女は眠ったまま、小さく彼のほうへ身を寄せた。
透真はその手を、しばらく宙に浮かせたまま、動かせずにいた。
鈴は、もう鳴らなかった。




