白無垢の帝都
瑞京に初雪が降ったのは、私が嫁ぐのではなく、婿を迎える朝のことでした。
鷺宮の家に生まれた女は、家を出ません。外から人を迎え入れ、家の名を次へ渡す。物心ついた頃から、母にも祖母にもそう教えられてきました。だから私は、白無垢の裾を女中たちに整えられながらも、花嫁らしい心細さというものを、どこか他人事のように眺めていたのです。
「お顔をお上げくださいまし、志乃様」
お槇が綿帽子の縁を指で直しました。皺の深い指先が、ほんのわずかに震えているのに私は気づきました。寒さのせいだろうと、そのときは思いました。
「お槇、私、おかしな顔をしている?」
「いいえ。……先代様のお若い頃に、本当によく似ていらっしゃいます」
お槇はそう言って、なぜか目を伏せました。
鏡の中の私は、紅をさした唇ばかりが妙に赤く、雪の色をした衣に埋もれて、まるで誰かが拵えた人形のようでした。
*
式は、屋敷の東棟にある大広間で執り行われました。
鷺宮の屋敷は、祖母の代に建て増された洋館と、それより古い数寄屋造りの母屋とが、長い渡り廊下で繋がっています。広間には磨き抜かれた寄木の床に緋毛氈が敷かれ、天井からは硝子の吊り燭台が下がり、その下に神前の祭壇が設えられている。和と洋とが、互いに素知らぬ顔で同じ部屋に収まっている様は、この家そのものを見るようでした。
参列したのは、両家の者と、ごく限られた縁者だけでした。帝都の名だたる家々を招いて盛大に披露する鷺宮の流儀からすれば、驚くほど慎ましい式です。母は「婿取りの式とは、もとよりそういうもの」とだけ言いました。
母——鷺宮千鶴は、黒留袖に身を包み、祭壇の脇に端然と座していました。四十を半ば過ぎても衰えを知らぬその横顔は、社交界で「白磁の侯爵夫人」と囁かれる通りの冷たい美しさで、今日という日にも一筋の綻びもありません。
祖母の姿はありませんでした。もう二年近く奥の座敷で床に就いたきりで、式の前に私が挨拶に上がったときも、枕から頭を上げずに、ただ私の手を取って長いこと撫でていました。乾いた掌でした。
「よい婿を、取りましたね」
祖母はそう言い、それから、聞き取れないほど小さな声で何か呟きました。私には「これで、また」と聞こえたような気がしましたが、問い返す前に、祖母は目を閉じてしまいました。
*
柊透真という人に、私はそれまで二度しか会ったことがありませんでした。
一度目は縁談の顔合わせ。二度目は結納の席。どちらも母が傍らにいて、私たちは型通りの挨拶と、季節の話を交わしたきりです。
柊子爵家は、かつて鷺宮と並ぶほどの旧家であったと聞いています。けれど先々代の頃から家運が傾き、今では麻布の屋敷も抵当に入っているとか。その家の長男が鷺宮の婿に入る。社交界の人々がこの縁組をどう噂しているかは、世間知らずの私にも察しがつきました。
祭壇の前で隣に並んだとき、私は初めて、その人の顔をまともに見ました。
背が高い。紋付袴の黒が、肌の白さを際立たせている。切れ長の目は伏せられていて、睫毛の影が頬に落ちていました。整いすぎていて、かえって表情というものが読み取れない顔でした。
三三九度の盃を受けるとき、私たちの指先が一瞬だけ触れました。彼の指は、驚くほど冷たかった。
ふと視線を感じて顔を上げると、参列者の端に座る柊宗佑——透真様のお父上が、こちらを見ていました。いいえ、正確には、こちらではなく、息子のほうを。
あれをどう言い表せばいいのか、今でも分かりません。誇らしさでもなく、別れを惜しむ親の情でもない。もっと昏い、たとえば、もう戻らない舟を岸から見送る人のような目でした。
宗佑様は、私と目が合うと、すぐに顔を背けました。
*
式の後、宴に移る前に、私は着替えのため洋館の二階へ上がりました。
洋館の長い廊下には、鷺宮の歴代当主の肖像画が掛けられています。初代から祖母まで、七代。どれも女の顔です。鷺宮は女が家を継ぐ家ですから、それは当然のことでした。幼い頃からこの廊下を何千回と歩き、私は一枚一枚の顔を、自分の身内として見慣れていたはずです。
その日、なぜ足が止まったのか。
たぶん、白無垢のまま、透真様の冷たい指の感触を残したまま、そこを通ったからでしょう。ふと思ったのです。
——旦那様たちの絵は、どこにあるのだろう。
七代の当主には、七人の夫がいたはずです。どの家でも、当主夫妻の肖像は並べて掛けるもの。けれど鷺宮の廊下には、女たちの顔しかありません。夫の名すら、どこにも記されていない。
私の父もそうでした。
父、遼一郎は、私が十の年の冬に、胸を患って亡くなりました。療養のため屋敷の外へ移り、それきり会えないまま、ある朝、母から「お父様は遠くへ行かれました」と告げられた。葬儀は身内だけで済まされ、私は子供だからと、棺の中を見せてもらえませんでした。
思えば、父の写真の一枚すら、この家には残っていないのです。
「志乃様、お召し替えを」
階段の下からお槇の声がして、私は我に返りました。最後にもう一度、祖母の肖像を見上げると、若き日の祖母の目が、絵の中から私を静かに見下ろしていました。
*
その夜、私たちは、母屋の奥に設えられた新しい寝所に入りました。
行灯の灯が、襖に描かれた鷺の群れを揺らしています。火鉢の炭がはぜる音のほかは、何も聞こえない。夜着に着替えた私は、布団の上に座ったまま、どうしていいか分からずに膝の上で手を重ねていました。
閨のことは、婚礼の前に母から一通り教えられていました。けれど言葉で聞くのと、知らない男の人が同じ部屋で息をしているのとは、まるで違うのです。
「寒くはありませんか」
透真様が言いました。式の間ほとんど聞かなかった声は、思っていたよりずっと低く、柔らかでした。
「……いいえ」
「嘘を仰る。指が白くなっていますよ」
彼は私の前に膝をつき、重ねた私の両手を、自分の掌で包みました。昼間はあれほど冷たかった手が、今は火鉢の熱を吸って温かい。
「怖がらなくていい。今夜、あなたが嫌だと思うことは何もしません」
その優しさに、私はかえって戸惑いました。私はこの人のことを何も知らない。この人もまた、私を知らないはずです。それなのに、どうしてこんなふうに、壊れ物を扱うように触れられるのでしょう。
「透真様は……この縁組を、望んでいらしたのですか」
口に出してから、ひどく不躾なことを訊いたと気づきました。けれど彼は笑いもせず、怒りもせず、ただ少しだけ目を細めました。
「ええ。ずっと前から」
ずっと前から。その言葉を、私は花嫁の耳で聞きました。聞きたいように聞いたのです。
彼の指が、私の頬に触れ、髪を梳き、首筋へ降りていきました。夜着の合わせが緩められ、冷えた空気と、それより熱い彼の息とが、代わる代わる肌を撫でる。私は目を閉じ、教えられた通りに力を抜こうとして、少しもうまくいきませんでした。
痛みはありました。けれど彼は急がなかった。私が息を詰めるたびに動きを止め、名前を呼び、私の呼吸が戻るのを待ってくれた。その辛抱強さが、私の中の硬く閉じたものを、少しずつ解いていきました。
やがて痛みの向こう側に、自分でも知らなかった熱が灯りはじめたとき、私は思わず彼の背に腕を回し、その肩口に顔を埋めました。
そのときです。
薄く目を開けた私の視界の端に、彼の横顔が映りました。
行灯の灯に照らされたその目は、少しも熱を帯びていませんでした。私を抱いている人の目ではなかった。もっと遠くを、襖の向こう、屋敷のさらに奥を見据えるような、凍えた目でした。
瞬きをした次の瞬間には、もうそれは消えていて、彼は私の額に唇を寄せ、「志乃」と、初めて私の名を敬称なしに呼びました。
見間違いだったのだと、私は自分に言い聞かせました。灯の加減だったのだと。
*
夜半、私はふと目を覚ましました。
隣で眠る透真様の寝息は静かで、規則正しい。火鉢の炭はすっかり灰になり、部屋は底冷えしていました。
何かが、聞こえた気がしたのです。
ずっと遠く、屋敷の奥のほうから。風の音とも、軒から落ちる雪の音とも違う、細く、か弱い——。
耳を澄ませましたが、もう何も聞こえませんでした。
私は夜着の襟をかき合わせ、彼の背にそっと身を寄せました。温かい背中でした。この人と、この家で、これから長い年月を過ごしていく。そのことを、私はまだ、ただの幸福の始まりとして信じていたのです。
雪は、明け方まで降り止みませんでした。




