共犯
透真様が麻布から戻られたのは、翌日の夕暮れでした。
私は洋館の廊下で、彼を待っていました。歴代当主の肖像が並ぶ、あの長い廊下で。西日が窓から斜めに差し込み、絵の中の女たちの顔を、血のような橙色に染めていました。
階段を上ってきた透真様は、私の姿を認めて足を止めました。私の顔を見て、すぐに分かったのでしょう。彼の表情から、穏やかな婿の仮面が、音もなく剥がれ落ちていきました。
「離れへ、行かれましたね」
「父に、会いました」
しばらく、どちらも口をききませんでした。窓の外で、鴉が一声鳴きました。
「何もかも、聞きました。柊の家のこと。鷺宮がしてきたこと。あの白い部屋が、誰のためのものか」
私は、彼の前に歩み寄りました。
「あなたが、すべて知っていて婿に来たことも」
*
「それで」と、透真様は言いました。「何をお訊きになりたいのです」
初めて聞く声でした。低く、乾いて、何の温もりもない。これが、この人の本当の声なのだと思いました。
「あなたは、何のためにこの家へ来たのですか」
「終わらせるためです」
即答でした。
「柊の男たちを何代も喰らってきたこの家を。この屋敷を。この血を。何もかも」
「血を」
「ええ」
透真様の目が、私のお腹に落ちました。それから、ゆっくりと私の顔に戻ってくる。
「あなたも含めて、です。志乃」
西日が、彼の顔の半分を影に沈めていました。
「この屋敷に火を放つつもりでした。あなたの母上も、祖母上も、あなたも、あなたの腹の子も、一人残らず。鷺宮の女の血を、一滴も残さずに。そのために、あなたに優しくした。あなたを抱いた。あなたが私を信じるように。母上たちが私を疑わぬように」
一言ひと言が、刃のようでした。私はそれを、黙って受けました。
「初夜に、あなたの目が冷たかったのは」
「この屋敷の奥のことを、考えていたからです」
「夜会の夜、あんなふうに私を抱いたのは」
「噂を聞いたあなたが、何かに気づくのを恐れたからです」
「私の手首を、掴んだのは」
透真様は、答えませんでした。
*
彼の手が、伸びてきました。
その両手が、私の首を包みました。指が、喉の両側に添えられる。冷たい指でした。婚礼の日、盃を受けたときに触れた、あの冷たさ。
「こうするつもりでした」
囁くような声でした。
「最初の夜から、何度も。あなたが眠っている間に。この首は細い。ほんの少し力を入れれば、それで終わる」
指に、わずかに力が籠りました。息が、少しだけ苦しくなる。
私は、逃げませんでした。
彼の目を、まっすぐに見上げました。西日に照らされた、その目の奥を。凍えた目ではありませんでした。もう、凍えてはいなかった。そこにあるのは、炎に灼かれ続けた人の、焦げついた痛みでした。
「では、なさってください」
私は言いました。
「父は言いました。あなたを恨むなと。恨むなら、この家を、そして私自身を恨めと。その通りです。私はこの家の血を引いて、この家の床の下に眠る人たちの上で、何も知らずに、何不自由なく生きてきました。あなたに殺されても、文句の言える身ではありません」
透真様の指が、震えはじめました。
「でも、ひとつだけ。この子は」
私は、自分のお腹に手を当てました。
「この子は、まだ何もしていません」
首に添えられた指から、ふっと力が抜けました。
透真様の顔が、歪みました。崩れるように。彼は私の首から手を離し、そのまま私を引き寄せ、肩口に顔を埋めました。広い背中が、大きく震えていました。
「できない」
嗚咽の混じる声でした。
「できないんだ、志乃。何度もやろうとした。何度も。あなたが眠る顔を見下ろして、この手を伸ばして、そのたびに、できなかった」
私は、彼の背に腕を回しました。肖像画の女たちが、私たちを見下ろしていました。
*
その夜、私たちは、互いの身体に縋りつくようにして抱き合いました。
優しさはありませんでした。性急さとも違いました。もっと切実な、溺れる者が流木にしがみつくような、なりふり構わぬ交わりでした。
透真様は、私の身体の隅々に、唇を押し当てました。首筋の、彼の指が添えられていた場所に。手首の、かつて痣を残した場所に。まだ膨らみきらないお腹に。一つひとつ、詫びるように、あるいは確かめるように。
私は彼の髪を掴み、彼の名を呼び、何度も彼を受け入れました。身体の奥が、熱と痛みとで痺れていく。もう、母に教えられた閨の作法など、どこにも残っていませんでした。ただ、この人の熱と重みと、喉の奥で掠れる声と、汗に濡れた肌の匂いだけが、私をこの世に繋ぎ止めていました。
果てるたびに、透真様は私の名を呼びました。志乃、と。何度も。まるで、その名を口にしなければ、私が消えてしまうとでもいうように。
夜明け近く、彼の胸に頬を預けたまま、私は言いました。
「私も、この家を終わらせます」
透真様の心臓が、一つ大きく打ちました。
「あなたにだけ、させはしません。あなたは、柊の人です。鷺宮の罪を、柊の人に背負わせるわけにはいかない。これは、鷺宮の女がつけなければならない始末です」
「志乃」
「ただ、お父様だけは、あそこから出してさしあげたい」
透真様は、しばらく黙っていました。やがて、低く言いました。
「枷の鍵は、母上が肌身離さず持っている。首から下げた、細い鎖に通して。叔父さんが言っていた。十二年、一度も外したことがないと」
母の胸元。夜会服の襟の奥に、いつも細い銀の鎖が覗いていたのを、私は思い出しました。首飾りだと思っていた。ずっと。
*
「七月の初めに、夜会があります」
私は、天井の暗がりを見上げながら言いました。
「母が、帝都の主だった家々を招いて開くのです。私が次の当主であること、そして、懐妊したことを披露するために。屋敷中の者が、その準備と後始末に追われます。夜更けには、客も帰り、使用人たちも疲れ果てて眠る」
「その夜に」
「ええ。その夜に」
透真様の腕が、私をきつく抱きしめました。痛いほどに。
「あなたは、本当にそれでいいのか。あなたの母上と、祖母上だぞ」
「あの人たちは、私の父を十二年、鎖に繋いできました。あなたの一族を、何代も喰らってきました。そして私に、同じことをさせようとしている」
私は、彼の胸から顔を上げました。
「それに、私は鷺宮の女です。透真様。母が言っていました。鷺宮の女は、皆そうやって愛するのだと」
自分の唇が、笑みの形に歪むのが分かりました。母と同じ、あの笑みの形に。
「だから私も、私のやり方で、あなたを愛します」
透真様は、何も言わずに私を見つめていました。その目に浮かんだものが、恐れだったのか、哀しみだったのか、それとも別の何かだったのか。私には、最後まで分かりませんでした。




