閑話四 揺らぎ
石油の缶は、新しい部屋の床下に隠してあった。
白木の香りがまだ残るその部屋に、透真は夜毎ひとりで忍び込み、少しずつ缶を運び入れた。自分が繋がれるはずだった床柱の、鉄の輪のすぐ下に。これほど似合いの隠し場所はない、と彼は思った。思って、少しも笑えなかった。
七月の夜会まで、あと十日。
*
計画は、元々ひとりのものだった。
屋敷に火を放ち、鷺宮の女たちを焼き、自分もその炎の中で終わる。柊の家に戻る場所などない。父の顔など二度と見たくない。この屋敷の床下に眠る男たちと同じ場所で、同じ灰になる。それで、何代にもわたる帳尻が合う。そう決めて、彼は婿に来た。
そこに、志乃が加わった。
加わった、という言い方が正しいのかどうか、透真には分からない。あの夜明け、腕の中であの女が言った言葉が、今も耳の奥で鳴り続けている。
——私も、私のやり方で、あなたを愛します。
あのとき志乃の唇に浮かんだ笑みを、透真は知っていた。夜会の夜、扇の陰から自分を値踏みしていた千鶴の笑み。病床から娘を見上げる多恵の笑み。鷺宮の女たちの、あの笑みだ。
何も知らない女だと思っていた。母親たちに目と耳を塞がれ、真綿にくるまれて育った、無垢な娘だと。だから憐れむ理由はないと、自分に言い聞かせることができた。だから、手にかけることもできるはずだった。
けれど今、あの女は知ってしまった。知って、それでも鷺宮の女であることをやめず、鷺宮の女のやり方で、母と祖母を焼くと言う。
自分は、あの女を救ったのか。それとも、最後の一人を、完成させてしまったのか。
*
その夜も、透真は格子の外に立った。
遼一郎は、窓辺に背を預けて座っていた。志乃が訪ねてきて以来、この男は目に見えて衰えた。望みを果たしてしまった人間の、あの静かな衰え方だった。
「あの子は、何をすると言っている」
遼一郎が訊いた。透真は、すべてを話した。夜会のこと。火のこと。千鶴の首の鍵のこと。
遼一郎は、長いこと黙っていた。
「あの子に、そんなことをさせるな」
「止められません。あの人は、もう決めている」
「ならば、連れて逃げろ」
遼一郎の目が、闇の中で光った。
「火をつけたら、すぐにあの子を連れて屋敷を出ろ。この離れには来るな。私のことは放っておけ」
「叔父さん」
「私は、ここで終わる。四千三百の線を刻んだ、この部屋で。それでいい」
遼一郎は、手の中の鈴を見下ろした。
「千鶴は、来るだろう。屋敷が燃えれば、きっと、ここへ来る。あれは、そういう女だ」
その声に、憎しみはなかった。それが、透真にはいちばん恐ろしかった。
*
寝所へ戻ると、志乃は起きていた。
行灯もつけず、窓辺に座り、月を見上げている。少しだけ膨らみはじめたお腹に、両の掌を重ねて。
「お祖母様に、呼ばれたの」
振り返らずに、志乃は言った。
「今日の午後。お祖母様が、私だけを枕元に呼んで。長いこと、私の手を撫でていらした。それから、こう仰ったわ。——あなたは、私に似ている。だから、何をするつもりか、分かっているよ、と」
透真の背筋が、凍りついた。
「それで、何と」
「好きになさい、と」
志乃は、ゆっくりと振り返った。月明かりの中で、その顔は、ぞっとするほど穏やかだった。
「お祖母様は、止めなかったの。それどころか、笑っていらしたわ。とても嬉しそうに」
透真には、その意味が分からなかった。分かりたくもなかった。
志乃が立ち上がり、彼の前に来た。白い手が、彼の頬に触れる。冷たくもなく、熱くもない、ただ柔らかな手。
「透真様。当日は、あなたが火を。私が、母の鍵を」
「志乃、あなたは屋敷を出てくれ。火をつけたら、すぐに。叔父さんも、そう望んでいる」
「いいえ」
志乃は、微笑んだ。
「最後まで、見届けます。私は、この家の当主になるのですもの」
透真は、その手を握った。握ったまま、何も言えなかった。
自分は今、この女を愛しているのだろうか。それとも、ただ恐れているのだろうか。その二つの区別が、もう、彼にはつかなくなっていた。




