離れの鍵
七月三日の夜、鷺宮の屋敷は、かつてないほどの灯りに満ちていました。
洋館の大広間には帝都の主だった家々が集い、硝子の燭台の下で、楽団がワルツを奏でている。庭には提灯が連なり、池の水面にその灯が揺れていました。
私は、母が仕立てさせた白絹の夜会服を着て、母の隣に立ちました。
「鷺宮の次の当主、志乃でございます」
母がそう告げると、広間中から拍手が湧きました。それから母は、私の懐妊を披露しました。拍手は、いっそう大きくなりました。高辻伯爵夫人が、扇の陰で何か囁き合っているのが見えました。あの化粧室の声の主たちも、きっとこの中にいるのでしょう。
透真様は、私の傍らで穏やかに微笑んでいました。完璧な婿の顔で。誰ひとり、その燕尾服の内ポケットに燐寸の箱が入っていることなど、知る由もありませんでした。
母は、その夜ずっと上機嫌でした。客の一人ひとりに礼を述べ、私の肩を抱き、時折、私のお腹にそっと手を触れた。胸元の襟の奥で、細い銀の鎖が、燭台の灯を受けてちらちらと光っていました。
*
最後の客が帰ったのは、午前一時を過ぎた頃でした。
使用人たちは後片付けに追われ、やがて一人、また一人と、疲れ果てて床に就いていきました。お槇には、昼のうちに暇を出してありました。田舎の甥のところへ。お槇は何も訊かず、ただ私の手を両手で包んで、長いこと離しませんでした。
午前二時。私は、母の部屋の扉を叩きました。
「お入りなさい」
母は、起きていました。夜会服を脱ぎ、白い寝間着に着替えて、窓辺の長椅子に座っていた。行灯の灯りが、その横顔を淡く照らしていました。膝の上には、何もありません。刺繍の枠も、本も。ただ、両の手を重ねて。
まるで、私を待っていたかのように。
「来ると思っていたわ」
母は言いました。
「お祖母様から聞いたの。あなたが何をするつもりか、分かっていると。お祖母様は、嬉しそうだった。あなたが、とうとう鷺宮の女になったと」
母は、ゆっくりと立ち上がりました。そして、自分の首の後ろに手を回し、銀の鎖の留め金を外しました。
十二年、一度も外さなかった鎖を。
鎖の先に、小さな鉄の鍵が下がっていました。黒く、錆の浮いた、何の飾りもない鍵。母は、それを私の掌に載せました。母の体温が、まだ残っていました。
「あなたが当主よ、志乃。好きになさい」
私は、母の顔を見上げました。白磁の仮面は、どこにもありませんでした。そこにいたのは、疲れ果てた、ひとりの四十六歳の女でした。
「お母様は、どうなさるのですか」
母は、答えませんでした。ただ、窓の外の、竹林のほうを見ていました。
*
最初の炎は、新しい離れから上がりました。
私が母の部屋を出て、渡り廊下を半ばまで来たとき、竹林の奥が、ぼうっと赤く染まったのです。白木の部屋が、床下の石油を吸って、一息に燃え上がった。火の粉が夜空に舞い上がり、乾いた竹に燃え移り、ぱん、ぱん、と竹の節が弾ける音が、銃声のように響きはじめました。
続いて、母屋の奥から。
透真様が、予め廊下に撒いておいた石油に、火を放ったのでしょう。祖母の眠る奥座敷のあたりから、黒い煙が這い出してきました。
私は、走りました。お腹を庇いながら、煙の中を。
奥座敷の襖は、半ば開いていました。部屋の中は、もう火の海でした。天井を炎が舐め、欄間の彫刻が黒く焦げて崩れ落ちていく。
その真ん中に、祖母がいました。
床から身を起こし、端座していたのです。何日も立ち上がることさえできなかった人が。白髪に火が移り、ちりちりと縮れながら燃えている。寝間着の袖が炎を上げ、その下の痩せた腕の皮膚が、蝋のように溶けて垂れている。肉の焦げる、甘く重い臭い。あの離れの床下から立ち上る臭いと、同じ臭いでした。
それでも祖母は、悲鳴ひとつ上げませんでした。
炎の向こうで、祖母が私を見ました。焼けただれていく顔の中で、あの落ち窪んだ目だけが、変わらずに光っていた。そして、その唇が、笑みの形に歪みました。
「これで、あなたが、鷺宮だよ」
そう聞こえました。確かに。
次の瞬間、天井の梁が崩れ落ち、祖母の姿は炎の中に消えました。
*
竹林は、燃え盛る炎の壁でした。
私は、煙に咳き込みながら、その中を抜けました。木戸はもう焼け落ちていた。熱風が頬を焼き、髪の焦げる臭いがする。白絹の夜会服の裾が、どこかで火を拾って燻りはじめていました。
古い離れは、まだ燃えていませんでした。けれど、隣の新しい部屋から伸びた炎が、もうその軒先を舐めていた。
板戸は、開いていました。
中に、母がいました。
白い寝間着のまま、父の傍らに座り、父の痩せた手を、自分の両手で包んでいた。父は、壁に背を預け、母の肩に頭をもたせかけていました。二人とも、静かでした。まるで、縁側で夕涼みでもしているかのように。
「お母様! お父様!」
私は、父の足元に這い寄りました。震える指で、母から託された鍵を、枷の鍵穴に差し込む。錆びついた鍵は、なかなか回りませんでした。煙が目に染みて、何も見えない。それでも、渾身の力を込めて——。
がちり、と音がして、十二年の枷が外れました。
「お父様、早く、外へ」
父は、首を横に振りました。
「もう、歩けないよ、志乃」
骨ばかりの脛。枷の痕が瘤のように盛り上がった足首。この足は、もうどこへも行けないのだ。十二年かけて、この部屋の形に、作り変えられてしまったのだ。
「では、私が背負います」
「志乃」
母が、初めて口を開きました。
「お腹の子に障るわ。行きなさい」
「お母様も、一緒に」
母は、微笑みました。あの、明け方の木戸の前で見た笑みとは違う。もっと柔らかな、私が一度も見たことのない、娘のような笑みでした。
「私は、ここにいるわ。十一年、来られなかったのだもの」
父の手が、母の手を握り返すのが見えました。
炎が、離れの屋根に燃え移りました。天井の板が、ぱらぱらと火の粉を降らせはじめる。
そのとき、背後から、誰かの腕が私を抱き上げました。
「志乃、行くぞ」
透真様でした。顔は煤に汚れ、燕尾服の袖が焼け焦げている。彼は私を両腕に抱え、離れから飛び出しました。私は彼の肩越しに、振り返りました。
炎に包まれていく離れの中で、父と母が寄り添っていました。母の手の中で、何かが小さく光った気がしました。
ちりん、と。
燃え盛る音の向こうで、確かに、鈴が鳴りました。
*
透真様は、私を竹林の外の、池のほとりまで運びました。
そこで私を下ろすと、彼は燃え盛る竹林を振り返りました。炎に照らされたその横顔を、私は今も、はっきりと覚えています。初夜に見た凍えた目でも、夜会で見せた完璧な笑みでもない。何かを、ずっと遠くに置いてきた人の顔でした。
「透真様」
私は、彼の袖を掴みました。
「どこへ行くのですか」
彼は、私の手を、そっと袖から外しました。そして、私の額に、唇を寄せました。婚礼の夜と同じように。
「叔父さんとの、約束がある」
そう言って、彼は炎の中へ駆け戻っていきました。
私は、彼の名を叫びました。何度も、何度も。喉が裂けるほどに。けれど、その声は、竹の弾ける音と、屋敷の崩れ落ちる轟音とにかき消されて、どこにも届きませんでした。
夜が明けるまで、鷺宮の屋敷は燃え続けました。
*
焼け跡から見つかったものを、私は後に、警察の人から聞かされました。
奥座敷の跡から、老いた女の亡骸が一つ。離れの跡から、寄り添うように重なった、男女の亡骸が一つずつ。そして、離れの床下から、数えきれないほどの、古い人骨。
透真様の亡骸は、どこからも見つかりませんでした。
警察は、炎があまりに激しかったため、骨まで焼き尽くされたのだろうと言いました。柊のお父上——宗佑様は、焼け跡に一度だけ姿を見せ、何も言わずに、長いこと離れの跡に立ち尽くしていました。それから、私に深々と頭を下げて、帰っていきました。それきり、柊の家からは、何の便りもありません。
*
その年の暮れ、瑞京に初雪が降った朝に、私は娘を産みました。
鷺宮には、女の子しか生まれない。母の言った通りでした。
私は今、瑞京の外れの小さな別邸で、娘と二人で暮らしています。焼け落ちた本邸は、建て直していません。鷺宮の家名は、まだ私の手の中にあります。手放すことも、できるのでしょう。けれど、私はまだ、それを決めかねています。
娘は、日に日に大きくなります。目元が、あの人に似ている気がします。切れ長の、睫毛の長い目。
時折、夜半に目が覚めることがあります。
遠く、どこからか、鈴の音が聞こえた気がして。けれど耳を澄ませても、もう何も聞こえない。あの鈴は、焼け跡からも見つからなかったのです。母の手の中にあったはずなのに。
そういう夜、私は箪笥の奥から、桐の小箱を取り出します。
中には、鍵が一つ入っています。お槇から渡された、あの離れの板戸の、真鍮の合鍵。焼け跡に戻されることなく、あの夜からずっと、私の手元に残っているもの。
私はそれを掌に載せ、眠る娘の顔を見下ろします。
あどけない寝顔です。何も知らない顔。私がかつてそうであったように。母が、祖母が、その前の女たちが、皆そうであったように。
この子に、いつか話さなければならないのでしょう。鷺宮の女たちが、何をしてきたのかを。私が、何をしたのかを。
それとも——。
私は、鍵を握りしめます。冷たい真鍮が、少しずつ、私の体温に馴染んでいく。
窓の外では、今年もまた、雪が降りはじめています。
私は、娘の寝顔に微笑みかけます。その微笑みが、母のものなのか、祖母のものなのか、それとも私自身のものなのか、確かめる鏡は、この部屋にはありません。
ただ、掌の中の鍵だけが、いつまでも温かいのです。




