第8話 温かい毛布
その毛布は、ある日の探索で、どこかの倉庫から持ち帰られたものだった。
厚手の、柔らかい毛布。くすんだ水色で、端に小さなタグがついていた。新品のまま、ビニールの袋に入っていた。三人が外で見つけた物資の中に、それが一枚だけ混じっていた。
「白瀬に」
大森さんが、そう言って、結の膝の上に毛布を置いた。
結は、驚いて顔を上げた。
「え……」
「冷えるだろ、夜。そろそろ」
大森さんは、なんでもないことのように言って、眼鏡を押し上げた。
確かに、夜は冷えるようになっていた。冷蔵ルームの冷気は、もうほとんど残っていなかった。電気が止まって何週間も経てば、さすがに断熱材も限界だった。それでも、夏が終わりに近づいて、夜の空気がひんやりとしてきていた。防寒着だけでは、明け方が少し寒かった。
結は、毛布のビニールを破いた。
柔らかかった。新しい布の、少しだけ乾いたにおい。それを肩からかけると、体がふわりと包まれた。
温かかった。
顔を上げると、冷蔵ルームの中の何人かが、こちらを見ていた。
毛布は、一枚だけだった。ほかの人たちは、相変わらず、古い防寒着にくるまって眠っている。段ボールを床に敷いて、その上で。
結は、毛布の端を握りしめて、うつむいた。
それから、こういうことが増えていった。
冷蔵ルームの中で、一番寒くない場所。奥の、壁際の、隙間風の入らない一角。そこは、三人が眠る場所だった。いつの間にか、結の寝床も、その隣に移されていた。小林さんが、そうしろと言ったのだ。
食事の時、三人から先に配られる食料は、結の分も一緒だった。ほかの人たちより、少しだけ多く。缶詰ではなく、結のアイテムボックスから取り出した、新鮮な肉や果物が。
外の探索に連れて行かれる時、結の前には、いつも佐野さんがいた。
佐野さんは、相変わらず、何も言わなかった。けれど、魔物が現れると、佐野さんは必ず、結と魔物の間に立った。結が後ろに下がるまで、そこを動かなかった。一度だけ、物陰から飛び出してきた小さな魔物が結に向かってきた時、佐野さんは振り返りもせずに、手にした棒でそれを叩き落とした。
「……ありがとう、ございます」
結がそう言うと、佐野さんは、ちらりと結の方を見た。それだけだった。けれど、それで十分だった。
大森さんは、よく結に話しかけるようになった。
ゲームの話だった。昔遊んだゲームの、アイテムボックスの話。ダンジョンの話。魔物の話。結は、ゲームのことはほとんど知らなかった。けれど、大森さんが楽しそうに話すのを聞いているのは、嫌いではなかった。
「白瀬、ゲームやらないの?」
「……あんまり」
「もったいないな。帰ったら、おすすめ教えてやるよ」
帰ったら。
大森さんは、時々、そういう言葉を口にした。帰ったら。ここから出られたら。助けが来たら。まるで、この日々がいつか終わることを、当たり前のように信じているみたいに。
結は、その言葉を聞くたびに、少しだけ胸が苦しくなった。
帰りたい、と思わなかったから。
「お前は特別だからな」
小林さんが、そう言ったのは、ある夜のことだった。
三人と結で、カセットコンロを囲んでいた。結のアイテムボックスから出した肉が、小さなフライパンの上で、じゅうじゅうと音を立てていた。
「ほかのやつらとは違う。お前がいなきゃ、俺たちはこんなもん食えねえ。お前は、俺たちの仲間だ」
仲間。
特別。
結は、その二つの言葉を、何度も頭の中で繰り返した。
家では、特別なのは姉だった。母は、姉のオーディションの日には朝から落ち着かなくて、姉が雑誌に載った日には、近所中に配って回った。結が何をしても、母はそんなふうには喜ばなかった。結は、いつも二番目だった。いや、二番目ですらなかったのかもしれない。数えられていなかった。
学校でも、そうだった。結は、白瀬玲奈の妹。それ以外の何者でもなかった。
それが、ここでは。
結は、特別だった。
初めて、誰かに選ばれた。
肉の焼けるにおいが、冷蔵ルームの中に漂っていた。少し離れた場所で、誰かが缶詰を開ける音がした。結は、その音を聞かないようにして、熱い肉を口に入れた。
倉庫は、変わっていった。
外の探索から、戻ってこない人がいた。
最初の頃は、それが大事件だった。誰かが戻ってこないと、冷蔵ルームの中が静まり返り、誰かが泣き、誰かが三人を責めるような目で見た。けれど、二度目、三度目と続くうちに、その沈黙は短くなっていった。戻ってこなかった人の寝床は、翌日には別の誰かのものになっていた。
結は、一度も危ない目に遭わなかった。
佐野さんが、いつも前に立っていたから。三人が、結を危険な場所には連れて行かなかったから。結は、いつも一番後ろで、三人が見つけた物をしまうだけだった。
結は守られていた。その分、ほかの誰かが、前に出ていた。
そのことに、結は、気づかないふりをした。
変わったのは、それだけではなかった。
社員の女の人の中に、夜になると、三人の寝床のあたりへ行く人が現れた。
20代くらいの、きれいな人だった。最初の頃は、ほかの人たちと同じように、隅の方で静かにしていた。けれど、ある時から、夜になると、その人は三人のそばへ行くようになった。何をしているのか、結には分からなかった。結が寝床で目を閉じている間に、その人はやってきて、明け方にはいなくなっていた。
その人の配給は、少しずつ増えていった。結と同じように、新鮮な肉や果物が配られるようになった。外の探索に出される回数は、減っていった。
ほかの女の人たちは、その人を、冷たい目で見ていた。けれど、誰も何も言わなかった。言えば、自分の配給がどうなるか、分かっていたから。
その人と目が合ったことが、一度だけあった。
明け方、結がふと目を覚ました時。その人は、三人の寝床のそばから、自分の場所へ戻るところだった。暗がりの中で、その人は結を見た。それから、何も言わずに、目を逸らした。
その目が、何を言っていたのか、結には分からなかった。分からないまま、結はもう一度目を閉じた。
分からない方がいいのだと、どこかで思っていた。
社員の人たちの視線も、変わっていった。
結が三人の隣で食事をしている時。結が毛布にくるまって眠っている時。結が外から戻ってきて、アイテムボックスから物を取り出している時。いつも、どこかから視線を感じた。
何も言わない視線だった。三人の前では、誰も何も言えない。けれど、その視線には、言葉にならない何かが詰まっていた。
なんで、あの子だけ。
高校生の、新人のバイトのくせに。
何もしていないくせに。
そう言われている気がした。
天城さんも、そうだった。
天城さんは、相変わらず部屋の隅にいた。結局、スキルは手に入れたらしかった。三人に従って、外の探索にも出ていた。けれど、前のように、誰かに話しかけることはなくなっていた。笑うことも。
結が三人の隣で肉を食べている時、天城さんがこちらを見ているのに気づいたことがあった。
その目は、ほかの人たちとは、少しだけ違っていた。責めるような目ではなかった。羨むような目でもなかった。ただ、何かを諦めたような、疲れた目だった。
結は、その目から逃げるように、うつむいた。
夜。
結は、水色の毛布にくるまって、横になっていた。
隣では、三人が眠っていた。小林さんの、規則正しい寝息。大森さんの、時々何かを呟く寝言。佐野さんは、眠っているのかいないのか、物音一つ立てなかった。
温かかった。
毛布が。それから、この場所が。
結は、毛布の端を、頬に押し当てた。新しい布のにおいは、もうほとんどしなくなっていた。代わりに、結自身のにおいが染みついていた。この毛布は、もう結のものだった。
ここが、結の場所だった。
家にも、学校にもなかった場所。誰かに選ばれて、特別だと言われて、守られる場所。
帰りたくない、と思った。
助けなんて、来なくていい。このまま、ずっと、ここにいたい。
そう思った自分に、結は少しだけ驚いた。それから、その思いを、毛布の中にそっとしまい込んだ。
眠りに落ちる直前、暗がりの中で、大森さんの声がした。寝言なのか、起きているのか、分からなかった。
「……アイテムボックスさえ、あればな」
結は、その言葉の意味を考えなかった。
考える前に、眠ってしまった。
温かい毛布の中で。




