↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ダンジョンが来た日から  作者: みろ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/11

第9話 におい


 最初は、気のせいだと思った。


 ある夜、いつものように、三人と結でカセットコンロを囲んでいた時だった。小林さんに言われて、結はアイテムボックスから肉のパックを取り出した。冷蔵ルームの棚から選んでしまっておいた、牛肉のパック。それを手のひらの上に出した瞬間、何かが、鼻の奥をかすめた。


 ほんのかすかな、甘ったるいような、すえたような。


 結は、手のひらの上のパックを見つめた。

 見た目は、変わらなかった。赤い肉が、透明なラップの下で、きれいに並んでいる。ただ、しまった時には霜がついていた表面が、今はしっとりと濡れていた。指先に触れるパックが、冷(・)た(・)く(・)な(・)か(・)っ(・)た(・)。


「どうした?」

 小林さんが言った。

「……いえ」

 結は、首を振った。


 パックを渡す。小林さんがラップを破り、フライパンに肉を並べる。じゅう、と音がして、いつもの焼けるにおいが立ち上った。さっきのにおいは、それにかき消されて、分からなくなった。


 気のせいだ、と結は思った。

 そう思うことにした。


 けれど、それから、結はアイテムボックスを開けるのが怖くなった。

 頭の奥の引き出し。そこに意識を向けるたびに、何かがおかしいような気がした。中は見えない。触れることもできない。ただ、そこに何が入っているのか、なんとなく分かるだけだ。肉。魚。野菜。果物。それらが、今、どうなっているのか。それは、分からなかった。


 取り出すたびに、においを確かめるようになった。

 みんなの前で取り出す前に、誰にも見られないように、そっと。冷蔵ルームの隅で、毛布の中で、少しだけ取り出して、鼻を近づける。大丈夫だったら、しまい直す。大丈夫ではなかったら――。


 大丈夫ではないものが、少しずつ増えていった。

 野菜が、しなびていた。葉物の端が、茶色く溶けていた。果物の皮に、白い斑点が浮いていた。魚のパックを少しだけ取り出した時、そのにおいに、結は思わず口を押さえた。


 時(・)間(・)は(・)、(・)止(・)ま(・)っ(・)て(・)い(・)な(・)か(・)っ(・)た(・)。


 結は、毛布の中で、膝を抱えた。

 最初から、止まっていなかったのだ。冷凍の肉が冷たかったのは、一緒に入れた冷凍食品が、まだ溶けきっていなかったからだ。凍ったものが、ほかのものを冷やしていた。ただ、それだけだった。大量の冷凍食品も、何週間も経てば、溶ける。溶けてしまえば、真夏の倉庫の中と、何も変わらない。


 大森さんが言ったのは、ゲームの話だった。

 結は、それを信じた。信じたかった。役に立つ子でいられるのなら、何でもよかった。

 言わなければ、と思った。

 大森さんに。小林さんに。中のものが、腐り始めていると。時間は、止まっていなかったと。


 言えなかった。


 言ったら、どうなるのか。結は、それを考えてしまった。三人が一番大事にしていた食料。一番いい肉、一番新しい魚、数の少ない果物。それを、結が腐らせた。三人は、何と言うだろう。小林さんは、どんな顔をするだろう。


 お前は特別だからな。


 その言葉が、裏返るところを、想像してしまった。

 だから、結は黙っていた。

 まだ大丈夫なものを選んで、取り出すようにした。においのするものは、取り出さないようにした。引き出しの奥に、押し込めるようにして。いつか、なんとかなるかもしれない。そんなはずはないと分かっていて、それでも、黙っていた。


 毎晩、毛布の中で、引き出しのことを考えた。

 そこにあるものが、少しずつ、少しずつ、崩れていく。においのするものが、増えていく。押し込めても、押し込めても。

 眠れない夜が、続いた。

 二か月が過ぎようとしていた。


 その日、大森さんが言った。

「白瀬、桃、まだあったよな」

 昼過ぎの、冷蔵ルームだった。外の探索から戻ってきたばかりの三人が、壁際に座り込んで、汗を拭っていた。大森さんの顔は、上機嫌だった。今日の探索で、何か珍しいドロップ品を手に入れたらしかった。

「たまには、贅沢しようぜ。ずっと取っておいたやつ」


 桃。

 結の心臓が、冷たくなった。

 探索の最初の頃、どこかの倉庫で見つけた、箱入りの桃だった。数が少ないから、大事に取っておこうと、大森さんが言った。いつか、特別な日に食べようと。だから、ずっと、引き出しの奥にしまわれたままだった。

 ずっと。


「……あの」

「ん?」

「桃は、その……」

 結は、言葉を探した。何を言えばいいのか、分からなかった。

「なんだよ。早く出してくれよ」

 小林さんが言った。少し、苛立ったように。


 三人が、結を見ていた。冷蔵ルームの中の、ほかの何人かも。

 結は、ゆっくりと、引き出しに意識を向けた。

 桃の箱。それを、思い浮かべる。

 出したくなかった。けれど、出さないわけにはいかなかった。


 手のひらの上に、箱が現れた。

 瞬間、においが、溢れ出した。

 甘ったるい、腐った果物のにおい。鼻の奥を突き刺すような、むせ返るようなにおいが、箱の隙間から、冷蔵ルームの中に広がっていった。

 箱の底が、黒く濡れていた。

 滴っていた。どろりとした汁が、結の指の間から、床に落ちた。

 誰も、何も言わなかった。

 大森さんが、ゆっくりと立ち上がった。結の手のひらの上の箱に、手を伸ばした。蓋を開ける。

 中は、桃の形をしていなかった。茶色く崩れた何かが、白い綿のような黴に覆われて、箱の底に溜まっていた。


 大森さんの手から、蓋が落ちた。

「……なんで」

 大森さんが呟いた。

「なんで、腐ってんだよ。時間、止まってるはずだろ。止まってるって……」

 大森さんは、結の顔を見た。それから、何かに気づいたように、目を見開いた。

「ほかのは」

「え……」

「ほかのも出せ。肉も、魚も、全部」


 結は、首を振った。

「出せって言ってんだよ!」

 大森さんの声が、裏返った。いつも淡々と話す大森さんが、怒鳴っていた。

 結は、出した。

 一つずつ。肉のパック。魚のパック。野菜の袋。果物。三人が選んで、大事に取っておいた、一番いいもの。それが、冷蔵ルームの床の上に、次々と並べられていった。


 どれも、腐っていた。

 においが、冷蔵ルームの中に充満した。誰かが、口を押さえて、外へ出ようとした。誰かが、えずいた。床の上に並べられたものから、黒い汁が滲み出して、コンクリートに染み込んでいった。

 大森さんは、それを見下ろしたまま、動かなかった。

 小林さんも。佐野さんも。


「……知ってたのか」

 小林さんが言った。

 低い声だった。怒鳴り声ではなかった。それが、余計に怖かった。

「腐ってるって、知ってたのか」

 結は、答えられなかった。

 知っていた。何週間も前から。においを確かめるたびに。毛布の中で、眠れない夜に。

「知ってて、黙ってたのか」

「……時間が止まってるって、言われたから、わたし、そうなんだって……」

 声が、震えた。

「最初は、本当に、分からなくて。冷たかったから。でも、においがして、それで……」

「それで、黙ってたのか」


 結は、うつむいた。

 それが、答えだった。

 大森さんが、乾いた声で笑った。

「……なんだよ。時間停止、ないのかよ。ただの、袋じゃねえか」

 大森さんは、眼鏡を外して、目元を押さえた。それから、結の方を見ずに言った。

「言えよ。最初に、言えよ。時間止まってないなら、止まってないって。お前のスキルだろ。お前が一番分かってるはずだろ」


 違う、と言いたかった。

 止まっていると言ったのは、大森さんだった。結は、何も分からなかった。中を見ることもできなかった。ただ、大森さんの言うことを、信じただけだった。

 けれど、言えなかった。

 腐っていると気づいてから、黙っていたのは、結だった。

 小林さんが、床の上の腐った肉を、つま先で蹴った。

 黒い汁が、結の足元に飛んだ。


「――役に立たねえな」

 小林さんは、そう言った。

 それだけだった。

 お前は特別だからな、と言った同じ口で。


 小林さんは、結に背を向けて、冷蔵ルームの奥へ歩いていった。大森さんも、眼鏡をかけ直して、その後に続いた。佐野さんは、少しだけ結の方を見て、それから、何も言わずに去っていった。

 結は、床の上の腐ったものの前に、一人で立っていた。

 周りの視線が、結に集まっていた。

 社員の人たちの目。パートの人たちの目。今まで、何も言えずに結を見ていた目。

 その目は、もう、何かを言いたそうではなかった。

 言わなくても、分かった。


 ざまあみろ、と。


 その夜、結の寝床は、三人の隣から、冷蔵ルームの隅へ移された。

 誰が言ったわけでもなかった。ただ、結が三人の寝床のそばへ行くと、そこにはもう、結の場所がなかった。三人は、結の方を見なかった。だから、結は、自分から隅へ行った。

 水色の毛布は、まだ結の手の中にあった。誰も、取り上げようとはしなかった。取り上げる価値も、ないと思われているのかもしれなかった。


 結は、毛布にくるまって、横になった。

 においが、した。

 毛布から。自分の髪から。手のひらから。腐った果物の、甘ったるいにおい。床に滴った汁を拭った時の、すえたにおい。それが、結の体中に染みついていた。どれだけ毛布に顔を埋めても、消えなかった。

 頭の奥の引き出しには、まだ、たくさんのものが入っていた。缶詰。工具。ドロップ品。空き缶。ペットボトル。手袋。


 腐るものは、もう、何も入っていなかった。

 結は、毛布の中で、目を閉じた。

 温かくなかった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。