第9話 におい
最初は、気のせいだと思った。
ある夜、いつものように、三人と結でカセットコンロを囲んでいた時だった。小林さんに言われて、結はアイテムボックスから肉のパックを取り出した。冷蔵ルームの棚から選んでしまっておいた、牛肉のパック。それを手のひらの上に出した瞬間、何かが、鼻の奥をかすめた。
ほんのかすかな、甘ったるいような、すえたような。
結は、手のひらの上のパックを見つめた。
見た目は、変わらなかった。赤い肉が、透明なラップの下で、きれいに並んでいる。ただ、しまった時には霜がついていた表面が、今はしっとりと濡れていた。指先に触れるパックが、冷たくなかった。
「どうした?」
小林さんが言った。
「……いえ」
結は、首を振った。
パックを渡す。小林さんがラップを破り、フライパンに肉を並べる。じゅう、と音がして、いつもの焼けるにおいが立ち上った。さっきのにおいは、それにかき消されて、分からなくなった。
気のせいだ、と結は思った。
そう思うことにした。
けれど、それから、結はアイテムボックスを開けるのが怖くなった。
頭の奥の引き出し。そこに意識を向けるたびに、何かがおかしいような気がした。中は見えない。触れることもできない。ただ、そこに何が入っているのか、なんとなく分かるだけだ。肉。魚。野菜。果物。それらが、今、どうなっているのか。それは、分からなかった。
取り出すたびに、においを確かめるようになった。
みんなの前で取り出す前に、誰にも見られないように、そっと。冷蔵ルームの隅で、毛布の中で、少しだけ取り出して、鼻を近づける。大丈夫だったら、しまい直す。大丈夫ではなかったら――。
大丈夫ではないものが、少しずつ増えていった。
野菜が、しなびていた。葉物の端が、茶色く溶けていた。果物の皮に、白い斑点が浮いていた。魚のパックを少しだけ取り出した時、そのにおいに、結は思わず口を押さえた。
時間は、止まっていなかった。
結は、毛布の中で、膝を抱えた。
最初から、止まっていなかったのだ。冷凍の肉が冷たかったのは、一緒に入れた冷凍食品が、まだ溶けきっていなかったからだ。凍ったものが、ほかのものを冷やしていた。ただ、それだけだった。大量の冷凍食品も、何週間も経てば、溶ける。溶けてしまえば、真夏の倉庫の中と、何も変わらない。
大森さんが言ったのは、ゲームの話だった。
結は、それを信じた。信じたかった。役に立つ子でいられるのなら、何でもよかった。
言わなければ、と思った。
大森さんに。小林さんに。中のものが、腐り始めていると。時間は、止まっていなかったと。
言えなかった。
言ったら、どうなるのか。結は、それを考えてしまった。三人が一番大事にしていた食料。一番いい肉、一番新しい魚、数の少ない果物。それを、結が腐らせた。三人は、何と言うだろう。小林さんは、どんな顔をするだろう。
お前は特別だからな。
その言葉が、裏返るところを、想像してしまった。
だから、結は黙っていた。
まだ大丈夫なものを選んで、取り出すようにした。においのするものは、取り出さないようにした。引き出しの奥に、押し込めるようにして。いつか、なんとかなるかもしれない。そんなはずはないと分かっていて、それでも、黙っていた。
毎晩、毛布の中で、引き出しのことを考えた。
そこにあるものが、少しずつ、少しずつ、崩れていく。においのするものが、増えていく。押し込めても、押し込めても。
眠れない夜が、続いた。
二か月が過ぎようとしていた。
その日、大森さんが言った。
「白瀬、桃、まだあったよな」
昼過ぎの、冷蔵ルームだった。外の探索から戻ってきたばかりの三人が、壁際に座り込んで、汗を拭っていた。大森さんの顔は、上機嫌だった。今日の探索で、何か珍しいドロップ品を手に入れたらしかった。
「たまには、贅沢しようぜ。ずっと取っておいたやつ」
桃。
結の心臓が、冷たくなった。
探索の最初の頃、どこかの倉庫で見つけた、箱入りの桃だった。数が少ないから、大事に取っておこうと、大森さんが言った。いつか、特別な日に食べようと。だから、ずっと、引き出しの奥にしまわれたままだった。
ずっと。
「……あの」
「ん?」
「桃は、その……」
結は、言葉を探した。何を言えばいいのか、分からなかった。
「なんだよ。早く出してくれよ」
小林さんが言った。少し、苛立ったように。
三人が、結を見ていた。冷蔵ルームの中の、ほかの何人かも。
結は、ゆっくりと、引き出しに意識を向けた。
桃の箱。それを、思い浮かべる。
出したくなかった。けれど、出さないわけにはいかなかった。
手のひらの上に、箱が現れた。
瞬間、においが、溢れ出した。
甘ったるい、腐った果物のにおい。鼻の奥を突き刺すような、むせ返るようなにおいが、箱の隙間から、冷蔵ルームの中に広がっていった。
箱の底が、黒く濡れていた。
滴っていた。どろりとした汁が、結の指の間から、床に落ちた。
誰も、何も言わなかった。
大森さんが、ゆっくりと立ち上がった。結の手のひらの上の箱に、手を伸ばした。蓋を開ける。
中は、桃の形をしていなかった。茶色く崩れた何かが、白い綿のような黴に覆われて、箱の底に溜まっていた。
大森さんの手から、蓋が落ちた。
「……なんで」
大森さんが呟いた。
「なんで、腐ってんだよ。時間、止まってるはずだろ。止まってるって……」
大森さんは、結の顔を見た。それから、何かに気づいたように、目を見開いた。
「ほかのは」
「え……」
「ほかのも出せ。肉も、魚も、全部」
結は、首を振った。
「出せって言ってんだよ!」
大森さんの声が、裏返った。いつも淡々と話す大森さんが、怒鳴っていた。
結は、出した。
一つずつ。肉のパック。魚のパック。野菜の袋。果物。三人が選んで、大事に取っておいた、一番いいもの。それが、冷蔵ルームの床の上に、次々と並べられていった。
どれも、腐っていた。
においが、冷蔵ルームの中に充満した。誰かが、口を押さえて、外へ出ようとした。誰かが、えずいた。床の上に並べられたものから、黒い汁が滲み出して、コンクリートに染み込んでいった。
大森さんは、それを見下ろしたまま、動かなかった。
小林さんも。佐野さんも。
「……知ってたのか」
小林さんが言った。
低い声だった。怒鳴り声ではなかった。それが、余計に怖かった。
「腐ってるって、知ってたのか」
結は、答えられなかった。
知っていた。何週間も前から。においを確かめるたびに。毛布の中で、眠れない夜に。
「知ってて、黙ってたのか」
「……時間が止まってるって、言われたから、わたし、そうなんだって……」
声が、震えた。
「最初は、本当に、分からなくて。冷たかったから。でも、においがして、それで……」
「それで、黙ってたのか」
結は、うつむいた。
それが、答えだった。
大森さんが、乾いた声で笑った。
「……なんだよ。時間停止、ないのかよ。ただの、袋じゃねえか」
大森さんは、眼鏡を外して、目元を押さえた。それから、結の方を見ずに言った。
「言えよ。最初に、言えよ。時間止まってないなら、止まってないって。お前のスキルだろ。お前が一番分かってるはずだろ」
違う、と言いたかった。
止まっていると言ったのは、大森さんだった。結は、何も分からなかった。中を見ることもできなかった。ただ、大森さんの言うことを、信じただけだった。
けれど、言えなかった。
腐っていると気づいてから、黙っていたのは、結だった。
小林さんが、床の上の腐った肉を、つま先で蹴った。
黒い汁が、結の足元に飛んだ。
「――役に立たねえな」
小林さんは、そう言った。
それだけだった。
お前は特別だからな、と言った同じ口で。
小林さんは、結に背を向けて、冷蔵ルームの奥へ歩いていった。大森さんも、眼鏡をかけ直して、その後に続いた。佐野さんは、少しだけ結の方を見て、それから、何も言わずに去っていった。
結は、床の上の腐ったものの前に、一人で立っていた。
周りの視線が、結に集まっていた。
社員の人たちの目。パートの人たちの目。今まで、何も言えずに結を見ていた目。
その目は、もう、何かを言いたそうではなかった。
言わなくても、分かった。
ざまあみろ、と。
その夜、結の寝床は、三人の隣から、冷蔵ルームの隅へ移された。
誰が言ったわけでもなかった。ただ、結が三人の寝床のそばへ行くと、そこにはもう、結の場所がなかった。三人は、結の方を見なかった。だから、結は、自分から隅へ行った。
水色の毛布は、まだ結の手の中にあった。誰も、取り上げようとはしなかった。取り上げる価値も、ないと思われているのかもしれなかった。
結は、毛布にくるまって、横になった。
においが、した。
毛布から。自分の髪から。手のひらから。腐った果物の、甘ったるいにおい。床に滴った汁を拭った時の、すえたにおい。それが、結の体中に染みついていた。どれだけ毛布に顔を埋めても、消えなかった。
頭の奥の引き出しには、まだ、たくさんのものが入っていた。缶詰。工具。ドロップ品。空き缶。ペットボトル。手袋。
腐るものは、もう、何も入っていなかった。
結は、毛布の中で、目を閉じた。
温かくなかった。




