第10話 優しい人
それからの一か月は、長かった。
結は、相変わらず外の探索に連れて行かれた。運ぶために。腐るものを入れなければ、アイテムボックスは、まだ便利な袋だった。缶詰、水、工具、ドロップ品。重いものを持ち歩かなくていい。それだけの価値は、まだ残っていた。
けれど、もう、誰も結の前には立たなかった。
佐野さんは、魔物が現れても、結を振り返らなかった。結は、自分で物陰に隠れ、自分で逃げた。一度、小さな魔物に足首を噛まれた。誰も、手当てをしてくれなかった。結は、冷蔵ルームの隅で、自分の作業着の袖を裂いて、傷を縛った。
配給は、減った。
三人の隣で食べていた肉は、もう回ってこなかった。結に配られるのは、缶詰の、一番小さなものだった。それも、時々、忘れられた。忘れられたのだと、結は思うことにした。
仕事が、増えた。
誰もやりたがらない仕事。冷蔵ルームの隅に溜まっていく、汚れたもの。においのするもの。それを片づけるのは、いつの間にか結の役目になっていた。誰かに言われたわけではなかった。ただ、結がやらなければ、誰もやらなかった。そして、やらなければ、においのことで、また結が責められた。
「――腐らせたのも、あの子でしょ」
ある日、パートの女の人が、聞こえるように言った。
「せっかくの食べ物、全部だめにして。あれがあれば、みんなもう少しまともなもの食べられたのに」
違う、と思った。あれは、最初から三人のものだった。みんなに配られるはずのものではなかった。
けれど、結は何も言わなかった。
言っても、何も変わらないと分かっていた。
視線は、日に日に増えていった。
前は、言葉にならない視線だった。今は、言葉になっていた。小さな声で、結の背中に向かって。役立たず。腐らせ屋。三人に媚びてたくせに。いい気味。
あの女の人は――夜に三人の寝床のそばへ行っていた女の人は、何も言わなかった。ただ、結と目が合うと、少しだけ哀れむような顔をして、それから目を逸らした。
その顔が、どんな悪口よりも、こたえた。
結は、水色の毛布にくるまって、夜を過ごした。
毛布のにおいは、少しずつ薄れていった。腐ったにおいが消えて、代わりに、汗と埃のにおいが染みついていった。それでも、結は毛布を手放さなかった。これだけは、結のものだった。
外は、秋になっていた。
トラック用の出入り口の隙間から吹き込む風が、冷たくなっていた。昼間の暑さが、少しずつ弱まっていく。夏休みは、とっくに終わっていた。本当なら、結は今頃、学校に通っているはずだった。白瀬玲奈の妹として。
家は、どうなっているのだろう。
時々、そう思った。母は、心配しているだろうか。姉は。父は。助けを呼んでくれているだろうか。それとも。
結は、その先を考えないようにした。
一か月が過ぎようとしていた頃、佐野さんが、それを見つけた。
探索の帰りだった。倉庫の外の、放置されたトラックの陰で、佐野さんがゴブリンを一体倒した。そのゴブリンが、肩から何かを提げていた。
鞄だった。
古びた、革のような素材の、肩掛けの鞄。大人が両腕で抱えるくらいの大きさ。佐野さんがそれを拾い上げ、大森さんに渡した。
大森さんは、鞄の口を開けて、中を覗き込んだ。
それから、手を突っ込んだ。肘まで。肩まで。鞄の大きさからは考えられない深さまで、大森さんの腕が沈み込んでいった。
大森さんの目が、見開かれた。
冷蔵ルームに戻ってから、大森さんは、何日もかけて、その鞄を調べた。
今度は、慎重だった。冷蔵ルームに残っていた、わずかな冷凍食品を入れた。翌日取り出す。冷たかった。三日後。冷たかった。一週間後。まだ、霜がついていた。
カセットコンロで沸かしたお湯を、水筒に入れて鞄にしまった。翌日取り出す。湯気が、立っていた。三日後も。
「……本物だ」
大森さんが、震える声で言った。
「時間停止だ。今度こそ、本物だ」
冷蔵ルームの中に、どよめきが広がった。
小林さんが、鞄を持ち上げて、まじまじと見つめていた。佐野さんも、珍しく、身を乗り出していた。
大森さんが、ちらりと結の方を見た。
ほんの一瞬だった。すぐに、目を逸らした。けれど、その一瞬で、結には分かった。
もう、いらない。
そういう目だった。
時間停止の鞄があれば、結のアイテムボックスは、いらない。腐らないものしか入れられない、ただの袋。そんなものより、何でも入って、何も腐らない鞄の方がいい。当たり前だった。
結は、毛布の端を握りしめた。
次の日、大森さんに言われた。
「お前の中のもの、全部、鞄に移して」
大森さんは、結の方を見ずに言った。
「缶詰とか、水とか、使えるもの全部。ゴミはいらない。移し終わったら、鞄、持ってきて。俺たち、奥にいるから」
それだけだった。
結は、冷蔵ルームの隅で、鞄の前に座った。
頭の奥の引き出しから、一つずつ取り出していく。缶詰。水のペットボトル。工具。ドロップ品。それを、鞄の口に入れていく。鞄は、どれだけ入れても、膨らまなかった。底なしの穴のように、何もかもを飲み込んでいった。
取り出すたびに、引き出しが軽くなっていった。
ここにいていい、と言われている気がした、あの重さ。それが、一つずつ、消えていく。
最後に残ったのは、空き缶と、空のペットボトルと、お菓子の空き袋と、手袋だった。
ゴミは、いらない。
結は、それを引き出しの奥にしまったまま、鞄の口を閉じた。
鞄を抱えて立ち上がろうとしたが、足が動かなかった。
この鞄を持って、三人のところへ行く。三人の前に立つ。鞄を渡す。そうしたら、結は、もう何も持っていない。何の役にも立たない、ただの、高校生の女の子。
その後、どうなるのか。
結は、鞄を抱えたまま、座り込んでしまった。
「――大丈夫?」
声がした。
顔を上げると、天城さんが立っていた。
ネイビーの作業着は、すっかり汚れて、色が分からなくなっていた。頬がこけて、目の下に、深い隈ができていた。それでも、天城さんは、結を見下ろして、少しだけ笑っていた。あの日、二階のピッキングエリアで、棚の向こうから顔を出した時と、同じ笑い方で。
「顔色、悪いよ」
「……天城さん」
天城さんは、結の隣に、腰を下ろした。
「ずっと、話しかけようと思ってたんだ。でも、なかなか、ね。俺も、あんまり、人に話しかけられる立場じゃないから」
天城さんは、自嘲するように笑った。
それから、二人で、しばらく話した。
何を話したのか、後になって思い出そうとしても、うまく思い出せなかった。たいしたことは、話していなかったと思う。天城さんは、主任のことを話した。止められなかったこと。三人が外に出された時も、主任が外に出された時も、何も言えなかったこと。それから、三人に笑われたこと。
「情けないよな。正社員なのに」
天城さんは、膝を抱えて、そう言った。
「俺さ、自分のこと、もうちょっとまともな人間だと思ってたんだ。困ってる人がいたら、助けられるような。間違ってることがあったら、ちゃんと言えるような。でも、全然違った。いざとなったら、何もできなかった」
結は、黙って聞いていた。
天城さんの気持ちが、分かる気がした。
結も、同じだった。三人が外に出された時、何も言わなかった。自分が選ばれなかったことに、ほっとした。腐っていると気づいた時も、黙っていた。言えば、自分の居場所がなくなると思ったから。
「……わたしも、です」
気がつくと、結は口を開いていた。
「わたしも、何も、言えなかった。ずっと。言わなきゃいけなかったのに…」
言葉が、溢れてきた。止まらなかった。腐っていることに気づいていたこと。怖くて言えなかったこと。役に立つ子でいたかったこと。家にも、学校にも、居場所がなかったこと。ここで初めて、特別だと言われたこと。それが、全部、なくなったこと。
天城さんは、黙って聞いていた。途中で、何も言わなかった。責めもしなかった。ただ、時々、うん、うん、と頷いていた。
誰かに、こんなに話を聞いてもらったのは、初めてだった。
話し終えると、結は、自分が泣いていることに気づいた。
慌てて、作業着の袖で顔を拭った。天城さんは、それを見ないふりをしてくれた。
「……それ、あいつらに届けるんだろ」
天城さんが、結の腕の中の鞄を見て言った。
結は、頷いた。
「怖いよな。あいつらの前に出るの」
結は、もう一度、頷いた。
天城さんは、少し考えるように黙ってから、言った。
「俺が届けるよ」
結は、顔を上げた。
「え……」
「俺が持っていく。君は、ここで休んでな。顔色、本当に悪いから。あいつらには、俺から渡しておくよ。それくらいなら、俺にもできるし」
天城さんは、そう言って、手を差し出した。
結は、腕の中の鞄を見下ろした。
それから、天城さんの手を見た。
日に焼けた手。あの日、閉まりかけた扉の隙間から伸びてきて、結の腕を掴んでくれた手。震えながら、それでも、結を中に引き込んでくれた手。
この人なら、大丈夫だと思った。
この部屋で、たった一人。結の話を、最後まで聞いてくれた人。結を責めなかった人。結を助けてくれた人。
「……お願い、します」
結は、鞄を、天城さんの手に渡した。
天城さんは、それを受け取った。鞄の重さを確かめるように、一度だけ、両腕で抱え直した。
ほんの一瞬、天城さんの手が止まった気がした。
鞄を抱えたまま、何かを考えるように。その目が、結ではなく、鞄でもなく、どこか遠くを見ているように見えた。
けれど、それは、本当にほんの一瞬だった。
「じゃあ、行ってくるよ」
天城さんは、そう言って、笑った。
いつもの、人の良さそうな笑顔で。
結は、天城さんの背中を見送った。冷蔵ルームの、薄暗い奥の方へ。三人のいる方へ。
その背中が見えなくなってから、結は、毛布にくるまった。
少しだけ、体が軽かった。泣いたからかもしれない。誰かに、全部話したからかもしれない。結は、毛布の中で、目を閉じた。
少しだけ、眠ってしまったのかもしれない。
次に目を開けた時、目の前に、小林さんが立っていた。
「――鞄は?」
小林さんが言った。
結は、ぼんやりと、小林さんの顔を見上げた。
「移し終わったら、持ってこいって言ったよな。いつまで待たせんだよ」
「……え」
結は、体を起こした。
「天城さんが……天城さんが、持っていくって……」
「は?」
小林さんの顔が、変わった。
その後ろから、大森さんと佐野さんが、顔を出した。
「天城?」
大森さんが、冷蔵ルームの中を見回した。
結も、見回した。
部屋の奥。三人の寝床のそば。社員の人たちが固まって座っている場所。天城さんが、いつも座り込んでいた、隅の場所。
どこにも、いなかった。
天城さんの寝床には、敷いていた段ボールが、そのまま残っているだけだった。わずかな私物も、置きっぱなしだった。まるで、少しそこまで出かけただけのように。
扉の前で見張りをしていた社員の人が、おずおずと口を開いた。
「天城さんなら……少し前に、出ていきましたけど。探索の、下見だって。鞄、抱えて……」
冷蔵ルームの中が、静まり返った。
結は、毛布を握りしめたまま、動けなかった。
頭の中が、真っ白だった。
天城さんの笑顔が、浮かんだ。じゃあ、行ってくるよ。いつもの、人の良さそうな笑顔で。
鞄を受け取った時の、ほんの一瞬。どこか遠くを見ていた、あの目。
結は、ようやく、理解した。
天城さんは、届けに行ったのではなかった。
行ってしまったのだ。
鞄を持って。
扉の、外へ。




