第11話 もう一度、扉の外
三人は、すぐに外へ出た。
小林さんと佐野さんが、扉の外の倉庫の中を探し回った。大森さんは、冷蔵ルームに残って、扉の前に立った見張りの社員を問い詰めていた。いつ出ていったのか。どっちへ行ったのか。何か言っていなかったか。見張りの社員は、青ざめた顔で、同じことを何度も繰り返していた。探索の下見だって。鞄を抱えて。それしか、聞いていない。
結は、毛布を握りしめたまま、冷蔵ルームの隅に座っていた。
動けなかった。
頭の中で、天城さんの声が、何度も繰り返されていた。俺が届けるよ。じゃあ、行ってくるよ。あの、人の良さそうな笑顔。結の話を、最後まで黙って聞いてくれた横顔。
嘘だったのだろうか。
全部。
結の話に頷いてくれたのも。泣いているのを見ないふりをしてくれたのも。最初から、鞄を持ち出すためだったのだろうか。
分からなかった。
分からなかったけれど、一つだけ、はっきりしていた。天城さんは、いなくなった。鞄と一緒に。結が渡した、鞄と一緒に。
小林さんたちが戻ってきたのは、日が傾きかけた頃だった。
トラック用の出入り口の隙間から差し込む光が、赤っぽくなっていた。冷蔵ルームの扉が開いて、小林さんと佐野さんが入ってきた。二人とも、何も持っていなかった。
小林さんは、まっすぐ、結の方へ歩いてきた。
結は、立ち上がろうとした。足が、もつれた。
「――立て」
小林さんが言った。
結は、毛布を抱えたまま、なんとか立ち上がった。
小林さんは、結を見下ろしていた。その目を、結は前に一度だけ見たことがあった。三人が外から戻ってきた日。主任の胸ぐらを掴んだ時の、あの目だった。
「天城と、何話してた」
「……え」
「あいつに鞄渡す前。二人で、ずっと話してただろ。見てたやつがいるんだよ」
結は、冷蔵ルームの中を見回した。
いくつもの目が、結を見ていた。誰が見ていたのか、分からなかった。全員が見ていたのかもしれなかった。
「何、話してたんだよ」
「……天城さんが、話しかけてきて。それで、主任のこととか、色々……」
「鞄のことは」
「それは、わたしが届けるのが怖いって言ったら、天城さんが、代わりに持っていくって……」
「それで、渡したのか」
結は、頷いた。
小林さんは、しばらく黙っていた。
それから、言った。
「グルだったんじゃねえのか」
結の頭の中が、白くなった。
「お前と天城で。示し合わせて。お前が鞄を渡して、天城が持って逃げる。後でどっかで落ち合うつもりだったんじゃねえのか」
「ち、違います……!」
「何が違うんだよ」
「わたし、知らなかった……天城さんが、そんな……届けてくれるって、言ったから……」
「届けてくれるって言ったから、渡したのか。俺たちに持ってこいって言われたのに、別のやつに」
結は、言葉に詰まった。
その通りだった。持ってこいと言われたのは、結だった。それを、天城さんに渡したのは、結だった。三人の前に出るのが怖かったから。
「……ごめん、なさい」
声が、かすれた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。でも、本当に、知らなかったんです。天城さんが、逃げるなんて……」
「信じられるかよ」
大森さんが言った。
大森さんは、少し離れた場所から、結を見ていた。眼鏡の奥の目が、冷たかった。
「お前、前にも黙ってたよな。肉が腐ってるの、知ってて。ずっと黙ってた。俺たちに嘘ついてたんだろ。今回も、同じじゃないって、どうして言えるんだよ」
結は、何も言えなかった。
言い返せる言葉が、なかった。
黙っていたのは、本当だった。
「――あの子、天城さんと仲良かったわよね」
どこかから、声がした。
パートの女の人の声だった。
「最初の日、天城さんに助けてもらってたし。倉庫で働いてた時も、よく話しかけられてた。わたし、見てたもの」
「三人に媚びて、いいもの食べさせてもらって。今度は天城さんと組んで、鞄持ち逃げ? 信じらんない」
「腐らせたのも、わざとだったんじゃないの」
「そうよ。最初から、みんなのこと馬鹿にしてたのよ、あの子」
声が、次々と上がった。
今まで、言葉にならなかった視線。言葉になっても、小さな声でしか言えなかった悪口。それが、堰を切ったように溢れ出していた。三人の前で、結を責めても、もう誰にも咎められない。むしろ、三人と同じ側に立てる。
結は、毛布を抱えたまま、立ち尽くしていた。
誰か、と思った。
誰か、違うと言って。
冷蔵ルームの中を、見回した。
社員の人たち。パートの人たち。夜に三人の寝床へ行っていた女の人。見張りの社員。最初の日、隣で歯をかちかちと鳴らしていたパートの女の人。
誰も、結と目を合わせなかった。
あの女の人も。哀れむような顔をしていたあの人も、今は、ほかの人たちと同じように、目を伏せていた。
結は、知っていた。
この光景を、知っていた。
三人が外に出された日。主任が外に出された日。誰もが目を伏せて、仕方ないと呟いた。結も、その中の一人だった。
今度は、結が、真ん中に立っていた。
「……もういい」
小林さんが言った。
声が、静まった。
「鞄は戻ってこねえ。天城も、どこ行ったか分かんねえ。こいつが何言っても、信用できねえ」
小林さんは、結を見た。
「出てけ」
その言葉が、結の耳に届くまでに、少しかかった。
出てけ。
どこへ。
扉の外へ。
「……え」
「出てけって言ってんだよ。ここに、お前の場所はねえ」
「待って……待ってください!」
結は、小林さんの作業着の袖を掴んだ。
「お願いします、何でもします、汚い仕事も、何でも、全部やります、だから……外は、外だけは……!」
小林さんは、結の手を振り払った。
結は、床に倒れ込んだ。毛布が、手から離れた。
その時、ほんの一瞬だけ、小林さんの顔が歪んだ気がした。
外は、外だけは。その言葉を聞いた時。小林さんの目が、どこか遠くを見た。閉じた鉄の扉。開けてください、と叫んだ自分の声。三回叩いても、開かなかった扉。
けれど、それは、本当にほんの一瞬だった。
小林さんは、目を逸らした。
「……佐野」
佐野さんが、結の腕を掴んだ。
強い力だった。結の体が、引きずられるようにして、床の上を滑った。結は、もがいた。佐野さんの手は、びくともしなかった。
大森さんが、床に落ちた毛布を拾い上げた。
「これは、置いてけ」
水色の毛布。結のにおいが染みついた、結の毛布。
「みんなで手に入れたもんだろ。お前のじゃねえ」
大森さんは、毛布を、近くにいた社員の人に放った。社員の人は、戸惑ったように、それを受け取った。
結は、その毛布に、手を伸ばした。
届かなかった。
「お前の中のもの、何が残ってる」
大森さんが言った。
結は、答えられなかった。
「ゴミしか残ってねえだろ。空き缶とか、ペットボトルとか。使えるもんは、全部、鞄に移したんだから。その鞄も、もうねえけど」
佐野さんに引きずられて、結は扉の前まで来た。
分厚い、鉄の扉。
あの日、結を中に入れてくれた扉。天城さんの手が、隙間から伸びてきて、結の腕を掴んでくれた扉。三人を外へ押し出した扉。主任を外へ放り出した扉。
見張りの社員が、取っ手に手をかけた。
鉄の扉が、重たい音を立てて、開いた。
外の空気が、流れ込んでくる。夏の熱気は、もうなかった。秋の、冷たい夕暮れの空気。それに混じって、あのにおい。何か月経っても消えない、鉄のような、焦げたようなにおい。
扉の向こうは、薄暗かった。
非常灯の緑色の光は、もうほとんど消えかけていた。倉庫の中は、トラック用の出入り口の隙間から差し込む赤い夕陽と、その影とで、まだらに染まっていた。
「お願い……お願いします……」
結は、佐野さんの腕にすがりついた。
佐野さんは、結を見下ろした。
その目に、何かが浮かんでいるように見えた。何なのかは、分からなかった。けれど、佐野さんは、何も言わなかった。最後まで、何も。
佐野さんは、結の体を、扉の外へ押し出した。
結は、冷たいコンクリートの床に、膝をついた。
振り返った。
扉の隙間の向こうに、冷蔵ルームの中が見えた。小林さん。大森さん。佐野さん。その後ろに、二十人近い人たちの顔。誰一人、結を見ていなかった。
いや。
一人だけ、見ていた。
小林さんだった。
小林さんは、扉の隙間から、結を見下ろしていた。その目は、怒っているようには見えなかった。憎んでいるようにも。ただ、何かを確かめるように、じっと、結を見ていた。
それから、言った。
「三回叩いても、開けねえからな」
扉が、閉まった。
重たい音が、倉庫の中に響いた。
結は、扉にすがりついた。
取っ手を掴んで、引いた。びくともしなかった。内側から、誰かが押さえている。結は知っていた。何人もの大人が、扉に体を押しつけて、それが二度と開かないように押さえている。あの日、結は扉の内側で、黙ってそれを見ていた。
結は、拳で、扉を叩いた。
一度。二度。三度。
開かなかった。
もう一度。三回。
開かなかった。
結は、扉に額を押しつけた。冷たかった。鉄の向こうから、何の音も聞こえなかった。誰の声も。誰の足音も。
叩いても、もう、意味がないのだと分かった。
結は、ずるずると、扉の前に座り込んだ。
倉庫の中は、静かだった。遠くで、何かが鳴いていた。冷蔵ルームの中で聞いていた時は、もう怖くなかった音。今は、それが、すぐそこにあった。扉一枚、隔てるものは何もなかった。
頭の奥の引き出しに、意識を向けた。
空き缶。空のペットボトル。お菓子の空き袋。手袋。
それだけだった。
トラック用の出入り口の隙間から、夕陽が差し込んでいた。赤い光が、倉庫の床を、長く伸びて這っていた。その光の向こうに、外の世界がある。三か月前、結が電車に乗ってやってきた世界。魔物がうろつく、おかしな世界。
日が、沈もうとしていた。
夜が来る。
結は、膝を抱えた。毛布は、もうなかった。
あの夏の日、各駅停車の窓から、灰色の倉庫を見た。ここなら、誰も私を知らない。誰とも話さなくていい場所。そう思った。
その通りになった。
ここには、もう、結を知っている人は誰もいない。
話しかけてくれる人も。
結は、閉じた鉄の扉に背中を預けたまま、沈んでいく赤い光を、ただ見つめていた。




