第12話 最初の夜
倉庫の中に、いつまでも座り込んでいるわけにはいかなかった。
夕陽が沈みきる前に、結はそれに気づいた。鉄の扉に背中を預けて、赤い光が床を這っていくのを眺めていた時だった。倉庫の奥の曗がりで、何かが動いた。陰の中で、低い影が、ゆっくりと首を巡らせていた。
ここには、魔物がいる。
当たり前のことだった。三人が毎日のように狩りに出ていたのは、この倉庫の中だ。冷蔵ルームの外は、もう人間の場所ではない。それを、結は三か月かけて、扉の内側から学んできた。
影は、まだこちらには気づいていないようだった。
結は、息を殺して立ち上がった。足首が痛んだ。何日か前に魔物に噛まれた傷。作業着の袖を裂いて縛っただけの傷口が、動くたびにじんじんと疼いた。それでも、歩かなければならなかった。
どこへ。
外へしかない。
トラック用の出入り口は、三か月前と同じように、半分開いたままだった。赤い光は、そこから差し込んでいた。結は、壁際の影を選んで、一歩ずつそちらへ向かった。散らばった荷物を踏まないように。床の上の暗がりを、見ないように。
地震の日、ここを通って、結は倉庫の奥へ逃げた。今は、その逆を歩いている。
出入り口の縁で、結は一度だけ、振り返った。
倉庫の奥に、冷蔵ルームの鉄の扉が見えた。薄暗がりの中で、それはただの、灰色の壁の一部のように見えた。あの向こうに、二十人近い人間がいる。水色の毛布も。
誰も、扉を開けてはくれなかった。
結は、前を向いた。
外は、広かった。
倉庫の前の駐車場は、三か月前と何も変わっていないように見えた。アスファルトの地面。停まったままのトラック。動かない乗用車。けれど、よく見ると、何もかもが少しずつ違っていた。トラックの荷台は乱暴にこじ開けられていた。乗用車のフロントガラスには、蜘蛛の巣のようなひびが入っていた。アスファルトの割れ目から、青い草が伸びていた。
そして、駐車場のあちこちに、何かが残っていた。
地震の日、マニュアル通りに外へ避難した人たち。その持ち物だったもの。色あせた帽子と散らばった黒い髪。崩れかけた肉片にスニーカーが辛うじて引っかかっていた。結と同じ、中身の入っている紺色の作業着の切れ端も赤黒く汚れている。
それ以上は、見なかった。
近くに、ほかの倉庫はなかった。一番近い倉庫でも、ここからはかなりの距離がある。普段なら、三十分も歩けば着く道のりだった。けれど今は、その道に魔物がはびこっている。道は荒れ果て、身を隠せるものもほとんどない。だだっ広い駐車場と、大きな道路と、そこに放置された車。それだけ。その道を三十分も歩いて、無事にたどり着ける気がしなかった。
倉庫地帯の建物は、どれも広い敷地を持っていて、互いに間隔が空いている。その間には、大規模な駐車場や、建設中の工場があった。次の倉庫へ向かう道の途中にも、鉄骨を組んだだけの建物が、夕暮れの中に黒い骨組みを晒していた。壁も、扉もない。風が素通りするだけのその場所は、今はもう、魔物の根城になっているように見えた。骨組みの奥の暗がりで、何かが動いた気がした。
遠くに小さく見える次の倉庫にも、明かりはなかった。遠目にも、シャッターが下りているのが分かった。たとえ、たどり着けたとしても。中に誰かがいるのか、いないのか。いたとしても、結を入れてくれるだろうか。
扉の内側にいる人間が、外から来た者にどうするのか。結は、それを知っていたから信じられなかった。
日が、沈んでいく。
空の赤が、紫に変わり、やがて灰色に変わっていく。遠くの山の稜線が、黒い影になっていく。街灯は一つも点かなかった。どこまで見渡しても、明かりは一つもなかった。
夜が来る。
どこかで、夜を越さなければならなかった。
結は、駐車場を見回した。
トラック。乗用車。身を隠せるのは、それだけだった。
一番近くにあったのは、白い軽自動車だった。運転席のドアが、半分開いていた。結は、そっと近づいて、中を覗き込んだ。
鼻を衝くにおいがした。
結は、口を押さえて後ずさる。
何があるのか、確かめなかった。確かめる必要はなかった。結は、その車から離れた。
次の車。その次の車。
窓ガラスが割れているもの。ドアがもぎ取られているもの。中に、何かが巣を作ったような跡があるもの。鍵がかかっていて、開かないもの。
一台ずつ覗き込むたびに、心臓が鳴った。この中に、何かがいたら。暗い座席の下に、何かが潜んでいたら。陰になった荷台の奥から、何かが飛び出してきたら…。
身を隠せる場所は、そのまま、何かが隠れているかもしれない場所だった。
空は、もうほとんど暗かった。
駐車場の外れ、大きな道路に面したところに、一台のトラックが停まっていた。銀色の箱を背負った、中くらいの大きさのトラック。荷台の扉は、開けられた跡がなかった。運転席の窓は閉まっていて、ガラスも割れていなかった。
結は、運転席のドアに手をかけた。
開いた。
鍵はかかっていなかった。地震の日、運転手が持ち主だった誰かは、慌てて飛び出したのかもしれない。そして、そのまま。
中は、空っぽだった。
こもった、埃っぽい空気。それだけだった。あのにおいは、しなかった。結は、息を殺しながら、座席の下を、助手席の足元を、そっと確かめた。何もいなかった。
結は、運転席に這い上がり、ドアを閉めた。
バタン、という音が、思ったよりも大きく響いた。結は、身を縮めた。そのまま、しばらく動かなかった。外から、何の音もしないことを確かめてから、ようやく、息を吐いた。
内側から、ドアのロックをかけた。
カチリ、という小さな音。
その音を聞いて、結は、自分が何をしたのか、少しだけ考えた。
扉を閉めた。内側から。
結は、運転席のシートに体を沈め、自分の膝を抱えた。
寒かった。
秋の夜だった。昼間はまだ暖かい日もあるけれど、日が沈むと、空気は一気に冷え込んだ。結が着ているのは、紺色の作業着だけだった。防寒着は、冷蔵ルームに置いてきた。置いてこさせられた。毛布と一緒に。
水色の毛布のことを、思い出した。
あの柔らかさ。あの温かさ。今頃、あの毛布は、誰かにくるまっているのだろう。結を責めた誰かに。結のにおいが染みついたままで。
結は、作業着の袖の中に、手を引っ込めた。
喉が、乾いていた。
最後に水を飲んだのは、いつだっただろう。今朝。いや、昨日の夜だったかもしれない。天城さんと話したのは、今日だったのか、昨日だったのか。それも、よく分からなくなっていた。
頭の奥の引き出しに、意識を向けた。
空き缶。空のペットボトル。お菓子の空き袋。手袋。
水は、一滴も入っていなかった。食べ物も。使えるものは全部、あの鞄に移した。結が、自分の手で。
結は、空のペットボトルを一本、取り出した。
暗がりの中で、それを光にかざしてみる。光などなかった。ただ、手の中の軽さで、それが空っぽだと分かった。キャップを開けて、口をつけた。底に、ほんのわずかに残っていたものが、舌の先を濡らした。それだけだった。
結は、ペットボトルを持ったまま、動けなくなった。
どうして、と思った。
どうして、自分は、こんなところにいるのだろう。
三か月前。結は、各駅停車の窓から、この街を見ていた。灰色の倉庫。高架を走るトラック。銀色の箱を背負った、まぶしい車体。
そのうちの一台に、今、結は閃じこもっている。
母の声が、耳の奥でよみがえった。
――バイト? あなたが?
あの時、意地を張らなかったら。母の言う通りに、家で、姉のために家事をしていたら。結は今も、あの家にいたのだろうか。姉の影で、息を潜めて。
それでも、ここよりは、ずっと、ましだった。
結は、そう思ってしまった自分に、少しだけ驚いた。あの家には、帰りたくないと思っていたのに。助けなんて、来なくていいと思っていたのに。
そう思えたのは、毛布があったからだ。居場所があったからだ。
全部、なくなった。
夜が、深くなっていく。
トラックの外は、本当の暗闇だった。月は出ていなかった。星だけが、少しだけ、フロントガラスの向こうで光っていた。街の明かりが全部消えると、星はこんなにもたくさん見えるのだと、結は初めて知った。
眠らなければ、と思った。
眠れなかった。
目を閉じると、音が聞こえた。
風が、トラックの車体を撫でる音。遠くで、何かが鳴く声。冷蔵ルームの中で、毛布にくるまって聞いていた時は、もう怖くなかった音。それが今は、薄い鉄板一枚を隔てた、すぐそこにあった。
夜中を過ぎた頃だったと思う。
足音がした。
結は、息を止めた。
アスファルトを、何かが歩いている。一つではなかった。細かく、素早い、爪が地面を擦る音。いくつもの音が、重なり合いながら、近づいてくる。
結は、運転席の足元に、体を押し込んだ。ハンドルの下の、狭い隙間。そこに、できるだけ小さく丸まった。窓から、頭が見えないように。
足音が、トラックのすぐ横を通った。
何かが、タイヤのにおいを嗅いでいる。鼻を鳴らす音。爪がアスファルトを掻く音。車体が、わずかに揺れた。何かが、車体に体をこすりつけたのだ。
結は、両手で口を押さえた。
息をしたら、聞こえてしまう気がした。心臓の音さえ、聞こえてしまう気がした。結は、目をきつく閹じて、ただ、それが過ぎ去るのを待った。
車体が、ぎしりと沈んだ。
何かが、ステップに足をかけた。運転席のドアのすぐ外に。結の頭の、すぐ上に。
窓ガラスに、何かが押しつけられる気配がした。
見てはいけない、と思った。それなのに、結の目は、勝手に上を向いていた。
ハンドルの隙間から、窓が見えた。星明かりを背にして、黒い影が、窓ガラスに顔を押しつけていた。灰色の、ざらざらとした鼻先。ガラスが、その息で白く曇っては、また晴れる。曇っては、晴れる。
目が、こちらを向いていた。
見えているのかどうか、分からなかった。暗い運転席の、ハンドルの下。見えるはずがない。見えるはずがない。結は、自分にそう言い聞かせた。
コツ、と音がした。
爪が、窓ガラスを叩いた音だった。
コツ。コツ。
確かめるように。中に何があるのか、確かめるように。
それから、ガラスの上を、爪がゆっくりと滑った。キィ、と、耳の奥を引っ掻くような音。一度。二度。三度目に、何かが、ぴしりと鳴った。
結は、窓を見上げたまま、凍りついた。
ガラスに、細い線が走っていた。星明かりを受けて、白く光る、一本の線。
次は、割れる。
その時、遠くで、何かが叫んだ。
倉庫の方からだった。人の声か、そうでないものか、分からなかった。窓に顔を押しつけていた影が、ぴくりと動いた。首を巡らせて、声のした方を向く。
車体が、ふっと軽くなった。
影が、ステップから飛び降りたのだ。
どのくらいそうしていたのか、分からない。
やがて、足音は、遠ざかっていった。
倉庫の方へ。
結は、口を押さえたまま、動かなかった。足音が、完全に聞こえなくなっても。風の音しかしなくなっても。ずっと。
魔物は、倉庫の方へ行った。
人間がたくさんいる方へ。
結は、そのことに、少しだけ気づいた。あれは、ここにいる一人よりも、もっとたくさんの獲物がいる方を選んだのだ。結が助かったのは、それだけの理由だった。
けれど、それを喜ぶ余裕はなかった。
結は、ハンドルの下の隙間で、体を丸めたまま、早く朝が来るようにと祈った。
でも、朝が来たら、どうするのだろう。
水もない。食べ物もない。帰る場所もない。助けてくれる人もいない。
あるのは、空き缶と、空のペットボトルと、お菓子の空き袋と、使い方の分からない手袋だけ。
結は、そのことを考えないようにした。
今は、ただ、この夜を越えることだけを考えよう。
考えることすら、もう、疲れていた。
いつの間にか、短い眠りに落ちていたらしい。
気づくと、フロントガラスの向こうが、うっすらと白んでいた。
結は、こわばった体を、ゆっくりと起こした。足が疺れていた。足首の傷が、熱を持って疼いていた。喉は、張り付くように乾いていた。
運転席の窓に、目を向けた。
ひびが入っていた。夜に見た一本の線は、朝の光の中で見ると、思っていたよりもずっと長かった。窓の端から端まで、斜めに走っている。その周りに、何本もの細かい引っかき傷。ドアの取っ手の周りにも。外側の、ステップの上にも。
窓ガラスの、ちょうど結の頭の高さに、何かがこすりつけられた跡が、白く乾いて残っていた。
あれは、知っていたのだ。
ここに、何かがいると。
もしかしたら、たまたま遠くで別の声がしたから、去っていった。それだけかもしれない。今夜もまた、来るかもしれない。次は、ガラスが持たないかもしれない。
それでも。
朝が来た。
結は、まだ生きている。
けれど、ここには、もういられなかった。




