第7話 役に立つ子
「次、これ」
大森さんが、段ボール箱を一つ、結の前に置いた。
結は、箱に手を触れて、頭の奥の引き出しに意識を向けた。箱が、ふっと消える。もう何度目か分からなかった。最初は、スマートフォン一つでも心臓が跳ねたのに、今は、自分の体よりも大きな箱が消えても、驚かなくなっていた。
「まだ入る?」
「……たぶん」
「すげえな。もう三十箱目だぞ」
大森さんは、手にしたメモ帳に何かを書き込んでいた。どこかの事務所から拾ってきた、ボールペンと、角の折れたメモ帳。そこには、結がしまった物の名前と数が、几帳面な字でずらりと並んでいた。
アイテムボックスの実験は、あの日から毎日続いていた。
何がどれだけ入るのか。重さは関係あるのか。生き物は入るのか。出す時は、狙った物だけを出せるのか。大森さんは、一つずつ試していった。結は、言われた通りに、物をしまい、物を出した。
生き物は、入らなかった。外で捕まえてきた小さな虫を入れようとしても、どうしてもできなかった。重さは、関係ないようだった。大きさにも、今のところ限りはなかった。出す時は、頭の中で思い浮かべた物を、一つずつ取り出せた。
「たぶん、時間も止まってる」
ある日、大森さんがそう言った。
「時間?」
「アイテムボックスの定番だよ。中に入れた物は、時間が止まる。だから、食べ物を入れても腐らない。温かいものは温かいまま、冷たいものは冷たいまま。ゲームじゃ、だいたいそうなってる」
大森さんは、結の顔を見て、眼鏡を押し上げた。
「試しに、昨日入れた冷凍の肉、出してみて」
結は、言われた通りにした。引き出しの中から、昨日しまった冷凍肉のパックを思い浮かべて、手のひらの上に取り出す。
冷たかった。
パックの表面には、うっすらと霜がついていた。真夏の倉庫の中で、丸一日経っているのに。
「ほら」
大森さんが、満足そうに言った。
「止まってる。時間、止まってるよ。すげえ。これ、とんでもないスキルだぞ」
結は、手のひらの上の冷たいパックを見つめた。
本当に、そうなのだろうか。自分の中の引き出しのことなのに、結には分からなかった。中がどうなっているのか、見ることはできない。しまって、出す。それだけだった。
でも、大森さんがそう言うのなら、そうなのだろう。大森さんは、魔物のことも、スキルのことも、誰よりも詳しかった。この冷蔵ルームの中で、大森さんの言うことを疑う人はいなかった。
それに、冷たかったのは、本当だった。
その日から、結のアイテムボックスには、食べ物が入れられるようになった。
冷蔵ルームに残っていた生鮮食品。肉、魚、野菜、乳製品。冷却装置が止まって、少しずつ温度が上がっていく冷蔵ルームの中で、それらは日に日に傷んでいくはずのものだった。その中から、状態のいいものを選んで、結のアイテムボックスにしまっていく。
全部では、なかった。
しまうのは、三人が選んだものだけだった。一番いい肉。一番新しい魚。数の少ない果物。それらは、冷蔵ルームの棚から消えて、結の中に入った。そして、三人が欲しい時にだけ、取り出された。
ほかの人たちに配られる食料は、冷蔵ルームの棚に残ったものと、倉庫から運んできた缶詰や乾物だった。
誰も、文句は言わなかった。言えなかった。三人に従う人には、ちゃんと配られる。従わない人には、配られない。それが、新しい決まりだった。
ただ、時々、視線を感じた。
結が、三人の前で肉のパックを取り出す時。それを、少し離れた場所から見ている目があった。社員の人たちの目。パートの人たちの目。何も言わないけれど、何かを言いたそうな目。
結は、その目を見ないようにした。
外への探索にも、結は連れて行かれるようになった。
戦うためではなかった。運ぶためだった。三人が外で見つけた物を、その場で結のアイテムボックスにしまっていく。食料、水、薬、毛布、工具。倉庫の外にある別の建物や、放置されたトラックの荷台から、使えそうなものを片っ端から。
魔物を倒すと、時々、物が手に入った。
灰色の、人に似た形の魔物。大森さんは、それをゴブリンと呼んだ。ゴブリンは、なぜか物を持っていることが多かった。ぼろぼろの袋や、錆びた刃物や、用途の分からない小さな道具。それから、大きな魔物の腹の中から、消化されずに残った金属の板や、何かの部品が出てくることもあった。
「魔物のドロップだ」
大森さんは、そう言って喜んだ。拾ったものは、全部、結のアイテムボックスに入れられた。使えるのか使えないのか分からないものも、とりあえず、全部。
「これも入れとけ」
ある日、小林さんが、結の手のひらに何かを放ってよこした。
手袋だった。黒っぽい、薄手の手袋。指の先のあたりから、細い糸のようなものが何本も垂れていた。
「ゴブリンが持ってた。ワイヤーみたいなのが出るらしいけど、使えねえ。こんなの、現実じゃ何の役にも立たねえよ」
小林さんは、もう結の方を見ていなかった。次の魔物を探して、通路の先へ歩いていく。
結は、手のひらの上の手袋を見つめた。
捨てるのも面倒だから、入れておけ。そういう意味だと分かった。結のアイテムボックスは、いつの間にか、三人にとってのゴミ箱にもなっていた。食べ終わった缶詰の空き缶。中身を飲み干したペットボトル。お菓子の空き袋。使い道の分からないドロップ品。どこにも捨て場所のないものが、結の中に放り込まれていった。
結は、手袋を引き出しにしまった。
それでも、よかった。
ゴミでも、何でも。結の中に入っているものは、全部、三人が結に預けたものだった。結にしか運べないもの。結がいなければ、持ち帰れないもの。
冷蔵ルームに戻ると、三人は結に、最初に食べ物を分けてくれるようになった。結のアイテムボックスから取り出した肉を、どこかの店から持ってきたカセットコンロで焼いて、三人と一緒に食べる。ほかの人たちが缶詰を開けている横で。
「白瀬がいるから、肉が食えるんだよな」
大森さんが、肉を頬張りながら言った。
「……そう、ですか」
「そうだよ。お前、すげえよ。アイテムボックスなんて、レアスキルだぞ。役に立つよ、ほんと」
役に立つ。
結は、その言葉を、口の中で転がした。
家では、聞いたことのない言葉だった。学校でも。結は、いつも、姉の妹だった。役に立つのは、いつも姉だった。オーディションに受かって、雑誌に載って、母を喜ばせて。結は、その横で、何の役にも立たない子だった。
役に立つ子。
この、世界が壊れてしまった場所で。魔物がうろつく、扉の外が地獄の場所で。結は初めて、そう呼ばれた。
熱い肉を口に入れると、涙が出そうになった。
慌てて、うつむいた。熱かったから、とごまかすように、何度も息を吹きかけた。
十日が過ぎ、二週間が過ぎた。
冷蔵ルームの中の空気は、少しずつ変わっていった。
最初の頃のような、張り詰めた恐怖は薄れていった。代わりに、何か、別のものが沈殿していった。慣れ、だったのかもしれない。殺伐とした日々に。三人の決まりに。外から時々聞こえる、魔物の声に。誰かが外の探索から戻ってこなかった日の、短い沈黙に。
人は、何にでも慣れるのだと、結は知った。
助けは、相変わらず来なかった。電波も戻らなかった。それでも、毎朝、目が覚める。三人が食料を配る。外に出る組が決まる。戻ってくる人と、戻ってこない人がいる。夜になる。眠る。それが、繰り返される。
日々が、回り始めていた。
夜、冷蔵ルームの隅で、結は防寒着にくるまって横になった。
目を閉じると、頭の奥の引き出しが、はっきりと分かった。最初は空っぽだったその場所に、今は、たくさんの物が詰まっている。肉。魚。野菜。缶詰。工具。ドロップ品。空き缶。ペットボトル。手袋。
重くはなかった。少しも。
けれど、確かにそこにある。三人が結に預けたもの。結にしか持てないもの。
結は、その引き出しを、そっと撫でるように意識した。
ここにいていい、と言われている気がした。
役に立つ子だから。
結は、防寒着の中で、小さく丸くなった。外では、遠くで何かが鳴いていた。いつもの音だった。もう、怖くなかった。
打ち明けて、よかった。
隠しておこうと決めていた引き出しを、あの朝、大森さんの前で開けたこと。それが間違いではなかったと、結は初めて思えた。




