第6話 新しい決まり
小林健太。大森拓海。佐野透。
三人の名前を、結はその翌日に知った。
知ったというより、覚えさせられた。冷蔵ルームの中で、小林さんが全員の前に立ち、一人ずつ名前を言わせた。そして最後に、自分たちの名前を言った。これからは、この三人の言うことを聞くこと。それが、新しい決まりの最初の一つだった。
決まりは、一つずつ増えていった。
冷蔵ルームを拠点にすること。食料は、冷蔵ルームと倉庫に残っている商品から、三人が配ること。扉の開け閉めは、三人が決めること。勝手に外へ出ないこと。勝手に扉を開けないこと。
そして、三人に逆らわないこと。
逆らったらどうなるのか、誰も聞かなかった。聞く必要がなかった。答えは、扉の外にあった。主任がどうなったのか、ここにいる全員が知っていた。
助けは、来なかった。
一日経っても、二日経っても。スマートフォンの電池は、一台、また一台と切れていった。電波は、一度も戻らなかった。冷蔵ルームの冷気は、日に日に弱くなっていった。電気が止まったままなのだから、当たり前だった。それでも、断熱材に囲まれた部屋の中は、外よりはずっと涼しかった。真夏の倉庫の中で、ここだけが、かろうじて人が生きていける場所だった。
三日目に、大森さんが言った。
「外に出て、魔物を倒せば、スキルが手に入ります」
冷蔵ルームの真ん中に立って、大森さんは、ゆっくりと全員を見回した。眼鏡の奥の目が、妙に落ち着いていた。
「俺たちだけじゃ、ここにいる全員は守れない。食料を取りに行くにも、外の様子を見に行くにも、戦える人間が必要です。だから、全員にスキルを取ってもらいます。俺たちが手伝います。魔物を弱らせて、最後の一撃だけ、自分でやってもらう」
部屋の中が、ざわめいた。
「全員って……」
「女の人も、ですか」
「全員です」
大森さんは、きっぱりと言った。
「スキルがあれば、生き残れる確率が上がる。それに、俺たちに従う人には、ちゃんと手伝います。従わない人には、手伝いません」
従わない人には。
その言葉の意味を、誰もが理解した。
スキルを得る機会は、三人が握っている。一人で外に出て魔物を倒すなんて、誰にもできない。三人の手伝いがなければ、スキルは手に入らない。スキルがなければ、この先、生き残れないかもしれない。
だから、従うしかなかった。
その日から、外に出る組が作られた。三人のうち誰かが先頭に立ち、数人ずつを連れて、扉の外へ出ていく。戻ってきた人たちは、みんな青ざめた顔をしていた。それでも、何人かは、自分の手を不思議そうに見つめていた。何かが変わった、という顔だった。
天城さんが外に出たのは、四日目だった。
戻ってきた天城さんは、小林さんたちと言い争っていた。
「――だから、あれはおかしいって言ってるんだよ」
天城さんの声が、冷蔵ルームの中に響いた。
「坂口さん、怪我してるのに、無理やり前に出させただろ。あの人、もう少しで死ぬところだった。魔物を引きつける役なんて、怪我人にやらせることじゃない。人として、おかしいだろ」
小林さんは、天城さんの顔を、じっと見ていた。
「人として、ですか」
「そうだよ」
「天城さん」
小林さんは、首を傾げた。
「主任が俺たちを外に出した時、天城さん、何してました?」
天城さんの顔が、強張った。
「止めようとはしてましたよね。お前が行くかって言われて、黙りましたよね。それから、主任が外に出された時も、黙ってましたよね」
「それは……」
「人として、おかしいって、今さら言うんですか」
冷蔵ルームの中で、誰かが小さく笑った。
一人ではなかった。何人かの、押し殺したような笑い声。嘲るような、それでいて、どこか安心したような笑い声だった。自分ではない誰かが笑われていることに、ほっとしている笑い声。
天城さんは、何か言い返そうとした。口を開いて、閉じて、また開いた。
「それに、天城さん」
大森さんが、横から言った。
「スキル、まだ取れてないですよね。今日、最後の一撃、外したでしょう。俺たちが押さえてた魔物に」
「……」
「明日も手伝いますよ。ちゃんと、従ってくれるなら」
天城さんは、長い間、黙っていた。
それから、小さく頷いた。
笑い声が、また少しだけ大きくなった。天城さんは、それ以上何も言わずに、部屋の隅へ行って座り込んだ。正社員の、ネイビーの作業着。ほんの数日前までは、それはこの部屋で一番上の色だった。今は、誰もそれを気にしていなかった。
結は、天城さんの背中を見ていた。
あの日、扉の隙間から伸びてきた手。結の腕を掴んで、引き込んでくれた手。その手が今、膝の上で、きつく握りしめられていた。
結は、何も言えなかった。
言える立場ではなかった。
結の番が来たのは、六日目だった。
「白瀬。今日、外な」
大森さんに言われて、結は、自分の心臓が止まったかと思った。
分かっていた。全員だと言われたのだから、いつかは自分の番が来る。分かっていても、足が震えた。扉の外。あの、灰色の影。駐車場に倒れていた人たち。
連れて出たのは、佐野さんだった。
佐野さんは、何も言わなかった。ただ、ついてこい、というように、一度だけ結の方を見て、扉の外へ出た。結と、パートの女の人が二人、その後に続いた。
外は、相変わらず暗かった。非常灯の緑色の光。散乱した荷物。あのにおい。結は、床の上の暗がりを見ないようにして歩いた。
佐野さんは、足音を立てなかった。気配すら、ほとんど感じなかった。前を歩いているはずなのに、ふと目を離すと、どこにいるのか分からなくなる。
倉庫の奥の通路で、佐野さんが立ち止まった。
棚の陰に、何かがいた。
猫くらいの大きさの、灰色の影。結が箱の下に見た、あの生き物に似ていた。それが、佐野さんの気配に気づかないまま、床の上の何かを漁っていた。
佐野さんは、音もなく近づき、手にした鉄の棒で、その生き物を打った。一撃で殺さなかった。脚を潰して、動けなくした。生き物が、甲高い声を上げて、床の上でもがいた。
佐野さんが、結の方を見た。
手にした棒を、結に差し出していた。
お前の番だ、という目だった。
結は、棒を受け取った。重かった。両手で握りしめる。床の上で、灰色の生き物がもがいていた。小さかった。脚を潰されて、逃げることもできずに、ただ、もがいていた。
手が、震えた。
できない、と思った。
生き物を殺したことなんて、一度もなかった。虫くらいしか。こんな、血の通った、鳴き声を上げる生き物を。
佐野さんは、何も言わなかった。ただ、待っていた。後ろで、パートの女の人たちが息を殺して見ていた。
できなかったら、どうなるのだろう。
従わない人には、手伝わない。大森さんは、そう言った。手伝ってもらえなかったら、スキルが取れない。スキルがなかったら。役に立たなかったら。
扉の外へ。
結は、目をつぶって、棒を振り下ろした。
鈍い手応え。甲高い声が、途切れた。
結は、棒を取り落とした。乾いた音が、倉庫の暗がりに響いた。手のひらに、手応えが残っていた。消えなかった。
何も、流れ込んでこなかった。
小林さんが言っていた、熱いものが体を駆け巡る感覚。それが、来なかった。頭の奥の引き出しは、相変わらず、そこにあった。それ以上の何かは、何も起きなかった。
もう、持っているから。
結は、そう思った。最初に、箱の下で死んだあの生き物。あの時に、結はもう、何かを手に入れていた。だから、今さら何も起きないのかもしれない。
佐野さんが、結の顔を見ていた。
結は、慌てて、自分の手を見つめるふりをした。何かが変わった、という顔を作った。戻ってきた人たちが、みんなそうしていたように。
佐野さんは、何も言わずに、次のパートの女の人の方を向いた。
その夜、結は眠れなかった。
冷蔵ルームの隅で、防寒着にくるまって、ずっと考えていた。スキルを取ったふりをした。けれど、それでは何の意味もない。外で戦えるわけでもない。力が強くなったわけでも、気配が消せるわけでもない。小林さんたちから見れば、結は、相変わらず役に立たない高校生の女の子のままだった。
役に立たない人間は、どうなるのか。
結は、天城さんの背中を思い出した。笑われていた、正社員の人。それから、主任のことを思い出した。扉の向こうで、言葉ではなくなった叫び声。
次は、誰だろう。
結は、ポケットの中のスマートフォンを握りしめた。
頭の奥の、引き出し。誰にも言ってはいけないと、あの時、決めた。目立てば、選ばれる。だから隠した。
けれど、隠していても、選ばれるのかもしれない。役に立たないから、という理由で。
翌朝、結は、大森さんの前に立った。
「……あの」
声が、かすれた。大森さんが、眼鏡の奥の目で、結を見下ろした。
「昨日、スキル……取れたと、思うんです。それで、何ができるのか、分からなくて」
嘘だった。半分だけ。
結は、手のひらの上に、スマートフォンを置いた。それから、頭の奥の引き出しに、そっと手を伸ばした。
スマートフォンが、消えた。
大森さんの目が、見開かれた。
結が、出てきて、と思う。手のひらに、スマートフォンが戻ってくる。
「……アイテムボックスだ」
大森さんが、呟いた。
その声が、震えていた。結が聞いたことのない声だった。いつも淡々と話す大森さんの声が、子どものように弾んでいた。
「アイテムボックスだよ、それ。ゲームの定番の。物を、しまっておける。どこにでも持ち運べる。どれくらい入る? 重いものは? 生き物は?」
「わ、分かりません……」
「試そう。今すぐ。小林さん! 佐野さん!」
大森さんが、二人を呼んだ。
小林さんと佐野さんが、結の方を見た。冷蔵ルームの中の、ほかの人たちも。何十もの目が、一斉に、結に向けられた。
結は、その視線の中で、立ちすくんだ。
目立ってしまった。
けれど、その目は、主任が三人を見た時の目とは違っていた。役に立たないものを見る目ではなかった。何か、価値のあるものを見る目だった。
結は、その視線の中で、どうしていいか分からずに立っていた。手のひらのスマートフォンを、ぎゅっと握りしめて。
大森さんが、何か早口でまくし立てていた。小林さんが、面白そうに口の端を上げていた。佐野さんは、黙って、結の手のひらを見つめていた。
誰も、結を扉の外へ押し出そうとはしていなかった。
その日から、結は「アイテムボックスの子」になった。




