第5話 ノック
三人が出ていってから、冷蔵ルームの中は、前よりもずっと静かになった。
誰も、三人のことを口にしなかった。口にすれば、自分たちが何をしたのかを認めることになる。だから誰も、何も言わなかった。スマートフォンのライトが、一つ、また一つと消えていく。電池を節約するためだと、誰も説明しなかったけれど、みんな分かっていた。
最初の数分は、扉の向こうから音がしていた。
ガチャガチャと取っ手を引く音。拳で扉を叩く音。開けてください、と叫ぶ声。結は、膝を抱えた腕に顔を埋めて、その音を聞いていた。扉の近くにいた何人もの大人が、無言で、扉に体を押しつけていた。叩く音は三回ずつ、何度も繰り返された。そのたびに、扉に押しつけられた背中が、わずかに揺れた。
主任が、何か言った。防寒着を持ってくるまで開けない、と。
それきり、叩く音は止んだ。
結は、耳を塞ぎたかった。けれど、塞いだら、塞いだことを誰かに見られる気がした。だから、ただ、聞いていた。叩く音が止み、足音が遠ざかっていくのを。
それから、長い時間が過ぎた。
十分だったのか、三十分だったのか、分からない。時計を見る気にはなれなかった。扉の外からは、時々、遠くで何かが倒れる音がした。何かが叫ぶような音もした。人の声なのか、そうでないものなのか、分からなかった。そのたびに、部屋の中の誰かが、小さく身を縮めた。
「……戻ってこないな」
誰かが、ぽつりと言った。
誰も答えなかった。
「死んだんじゃないか、もう」
「やめろよ」
「でも、こんなに時間かかるはずないだろ。一分で行けるって……」
声が途切れた。言った本人も、その先を言えなかったのだと思う。
結の隣で、パートの女の人が、すすり泣き始めた。寒さのせいなのか、別の何かのせいなのか、分からなかった。年配の社員の男の人は、まだ壁にもたれたまま、ぐったりしていた。誰かがその人の手をさすっていた。
主任は、腕を組んで、扉のそばに立っていた。苛立ったように、つま先で床を叩いている。その顔は、ライトの陰になって、よく見えなかった。
天城さんは、扉から少し離れた場所に、膝を抱えて座っていた。顔を伏せたまま、ずっと動かなかった。
結は、かじかんだ手の中で、スマートフォンを握りしめていた。
電波のない画面を、もう何度見たか分からない。それでも手放せなかった。これだけが、この部屋の外とつながっていたはずのものだったから。
頭の奥の違和感は、まだ消えていなかった。
引き出しが一つ、増えたような感覚。目を閉じると、それがはっきりと分かった。自分の中のどこかに、空っぽの、何もない場所がある。手を伸ばせば届きそうな、けれど体のどこにもない場所。
何なんだろう、これは。
ぼんやりと、そこに意識を向けた。寒さで思考が鈍っていたせいかもしれない。その空っぽの場所に、手の中のスマートフォンを、そっと置くような気持ちになった。
ふっと、手が軽くなった。
結は、目を開けた。
手の中に、スマートフォンがなかった。
息が止まった。落としたのかと思って、膝の上を、床を、手探りで探した。ない。どこにもない。けれど、それがどこにあるのか、結には分かっていた。頭の奥の、あの空っぽだった場所。そこに、今は何かが一つ、入っている。
出てきて、と思った。
手の中に、冷たくて硬い感触が戻ってきた。
スマートフォンだった。
結は、それを両手で握りしめたまま、動けなくなった。心臓が、痛いほど速く打っていた。周りを見回す。誰も、結の方を見ていなかった。みんな、扉の方を、自分の膝の上を、見ていた。
何が起きたのか、分からなかった。分からないまま、もう一度、試した。スマートフォンが消える。出てこい、と思う。手の中に戻ってくる。
夢ではなかった。
頭を打ったせいでもなかった。
あの、箱の下で死んでいた生き物。あれを見た時から、この感覚があった。あれと、関係があるのだろうか。分からない。何も分からない。
けれど、一つだけ、はっきりしていることがあった。
これは、誰にも言ってはいけない。
なぜそう思ったのか、自分でも分からなかった。ただ、この部屋の中で、自分だけが普通ではない何かを持っていると知られたら、どうなるのか。それが、怖かった。目立てば、選ばれる。さっき、扉の外へ押し出された三人のように。
結は、スマートフォンをポケットにしまい、膝を抱え直した。誰にも気づかれないように、できるだけ小さく。
結も、動けなかった。
寒さが、体の芯まで凍らせていた。指先の感覚は、とっくになくなっていた。眠い、と思った。こんな時に眠くなるのはおかしい、と頭のどこかで思いながら、まぶたが重くなっていく。
その時だった。
ゴン、と。
扉が、鳴った。
部屋の中の全員が、顔を上げた。
ゴン。
ゴン。
三回。
鉄の扉を叩く、重たい音が、三回。
誰も、すぐには動けなかった。結は、自分の息が止まっているのに気づいた。三回。三回叩いたら開ける。主任は、そう言った。
「……三回、だよな」
誰かが言った。
「本当に、あいつらか?」
「三回叩いたんだから、そうだろ」
「でも、もし違ったら……」
あの、灰色の影。扉の外にいた、あれ。あれが、扉を叩くことを覚えたのだとしたら。結は、そんなことを考えた自分にぞっとした。
ゴン、ゴン、ゴン。
もう一度、三回。
さっきよりも、強い音だった。扉が、わずかに震えた気がした。
「開けろ」
主任が言った。
「防寒着、持ってきたんだろ。さっさと開けろ」
何人かの社員が、顔を見合わせてから、取っ手に手をかけた。扉に押しつけていた体を離し、重たい鉄の扉を、ゆっくりと引く。
隙間が開いた。
外の空気が、流れ込んでくる。生ぬるい空気と、あのにおい。鉄のような、焦げたような。さっきよりも、ずっと濃いにおいだった。
その隙間に、人影が立っていた。
三人だった。
小柄な人を先頭に、眼鏡の人と、背の高い人。三人とも、全身が汚れていた。泥なのか、何なのか分からない黒っぽい汚れが、作業着にも、顔にも、手にも、べったりとついていた。眼鏡の人の作業着の袖は、大きく裂けていた。
そして、三人の腕には、防寒着が山のように抱えられていた。
部屋の中から、息を呑む音が聞こえた。それから、誰かが小さく歓声のような声を上げた。防寒着だ。本当に持ってきた。生きて戻ってきた。
何人かが、扉の方へ駆け寄ろうとした。
その足が、止まった。
小柄な人の腕に、防寒着が抱えられていた。ほかの二人の倍以上の量だった。厚手の防寒着が、何着も、何着も、腕の中に積み重なっている。普通なら、抱えきれるはずのない量だった。それを、小柄な人は、まるで空の段ボール箱でも持つように、軽々と抱えていた。
小柄な人は、その山を、床の上に放り出した。
ばさり、と重たい音がした。
「……持ってきましたよ」
小柄な人が言った。
すみません、とは言わなかった。
結は、その声を聞いて、なぜか背筋が冷たくなった。寒さのせいではなかった。今朝まで、毎日のように主任に怒鳴られて、すみませんと頭を下げていた人の声だった。同じ声のはずなのに、何かが、決定的に違っていた。
みんな、我先にと防寒着に手を伸ばした。結も、パートの女の人に押しつけられるようにして、一着を受け取った。厚手の生地に袖を通すと、凍えきっていた体が、少しずつ、自分の体温を取り戻していく。指先に、じんじんと感覚が戻ってくる。
生きている、と思った。
その時、主任が、三人の前に出た。
「遅えんだよ」
主任は、床の防寒着を一着拾い上げながら言った。
「何十分かかってんだ。一分で行けるっつったろうが。どこで油売ってたんだよ」
いつもの声だった。いつもの、苛立った、怒鳴りつけるような声。
けれど、三人は、いつものように頭を下げなかった。
「……魔物が、いたんですよ」
眼鏡の人が言った。
「は?」
「外に。何匹も。俺たちを、殺そうとしてきました。だから、殺しました」
部屋の中が、静まり返った。
「殺したら、スキルが手に入りました」
眼鏡の人は、淡々と続けた。声は震えていなかった。
「力が強くなったり、気配を消せたり。ゲームみたいなものです。魔物を殺せば、強くなれるんです。外では」
スキル。
結は、防寒着の下で、ポケットの中のスマートフォンを握りしめた。頭の奥の、あの引き出し。あれも、そうなのだろうか。けれど、結は魔物なんて殺していない。殺したのは、崩れてきた箱だ。
結は、何も言わなかった。
「何、訳の分かんねえこと言ってんだ」
主任が、鼻で笑った。
「ゲームだぁ? 頭でも打ったのか。いいから、さっさと――」
主任の言葉が、途切れた。
小柄な人が、主任の胸ぐらを掴んでいた。
片手で。
主任の体が、浮いた。首の太い、体の大きな主任の体が、小柄な人の片腕一本で、床から浮き上がっていた。主任の足が、宙でばたついた。
誰かが、悲鳴を上げた。
「お、おい、何して……離せ、離せよ!」
主任が、小柄な人の腕を叩いた。びくともしなかった。
「三回、叩きましたよ」
小柄な人が言った。静かな声だった。
「最初に。開けてくださいって。入れてくださいって。三回叩いたら開けるって、主任、言ってましたよね。三回叩きました。何回も。開けてくれませんでしたよね」
「そ、それは、防寒着を……」
「外、何がいるか分からないって、言いましたよね。主任は、すぐそこだろって言いましたよね。一分で行けるって」
小柄な人は、主任の体を、ゆっくりと扉の方へ運んだ。
主任の顔が、引きつった。
「待て……待て待て待て、冗談だろ。おい、誰か、誰か止めろよ!」
主任が、部屋の中を見回した。
誰も、動かなかった。
さっき、三人が押し出された時と同じだった。誰もが、目を伏せていた。社員の人たちも、パートの人たちも。体の大きな社員の人も。誰も、主任の方を見なかった。
結は、天城さんを見た。
天城さんは、膝を抱えたまま、顔を上げていた。主任と、小柄な人を、真っ青な顔で見つめていた。唇が、何か言おうとして動いた。
けれど、言葉は出なかった。
天城さんは、ゆっくりと、目を伏せた。
背の高い人が、扉の取っ手に手をかけた。何も言わずに、重たい鉄の扉を、引き開ける。外の空気が、また流れ込んでくる。
「やめろ! やめてくれ! 悪かった、俺が悪かったから!」
主任の声が、裏返った。
小柄な人は、主任の体を、扉の外へ放り出した。
扉が、閉まった。
重たい音が響いた。今度は、三人が内側にいた。眼鏡の人と背の高い人が、扉に背中を押しつけていた。
扉の向こうで、主任が叫んでいた。
開けろ。開けてくれ。頼む。
そして、扉を叩く音がした。
ゴン。ゴン。ゴン。
三回。
誰も、開けなかった。
ゴン、ゴン、ゴン。
三回。
誰も、開けなかった。
やがて、扉の向こうで、別の音がした。
主任の叫び声が、言葉ではなくなった。
結は、両手で耳を塞いだ。今度は、誰に見られても構わなかった。それでも、塞いだ指の隙間から、音は入り込んできた。長く、長く続いて、それから、ふっと途切れた。
静かになった。
冷蔵ルームの中に、誰の声もしなかった。防寒着にくるまった二十人あまりの人間が、ただ、息を殺していた。
小柄な人が、部屋の中を振り返った。
ライトの白い光の中で、その顔は、汚れにまみれていた。けれど、もう、背中は丸まっていなかった。
「……今日から、ここのことは、俺たちが決めます」
小柄な人が言った。
誰も、何も言わなかった。
言えなかった。
結は、防寒着の襟元を、ぎゅっと握りしめた。温かかった。凍えていた体に、ようやく体温が戻ってきていた。
それなのに、震えが止まらなかった。
扉は、閉まっていた。分厚い、鉄の扉。数時間前、結たちを守ってくれた扉。
その扉を、誰が開けて、誰が閉めるのか。
それを決めるのは、もう、自分たちではなかった。




