第4話 扉の外
鉄の扉が閉まる音は、思っていたよりもずっと小さかった。
ガコン、と一度だけ。それきり、背後は静かになった。
小林健太は、閉じた扉に手を当てたまま、しばらく動けなかった。
冷たい鉄の感触。ついさっきまで自分も、この内側にいた。寒さに震えながら、膝を抱えて、それでも外よりはましだと思っていた。その場所から、今、追い出された。
二十三歳。高校を出てから、いくつかのアルバイトを転々とした。どこへ行っても、使い走りだった。怒鳴られて、謝って、また怒鳴られる。それがいつものことで、いつものことだと思っているうちに、謝ることが癖になった。
今日もそうだった。すみません、と言いかけた。言う前に、扉が閉まった。
嘘だ、と思った。
健太は、扉の取っ手を掴んだ。両手で、力いっぱい引いた。びくともしなかった。いつもなら、高校生の女の子でも一人で開けられる扉だった。それが、どれだけ引いても動かない。内側から、誰かが押さえているのだと、その時初めて分かった。それでも健太は引き続けた。指が痛くなるまで。爪が割れそうになるまで。
「開けて……開けてください! 中に、入れてください!」
拳で、扉を叩いた。一度、二度、三度。三回叩けば開けると、主任は言った。だから三回叩いた。開かなかった。もう一度、三回。開かなかった。
「お願いします! 開けてください! まだ、何も、何も見えないんです! 外、何がいるか分からないんです!」
拓海も、扉にすがりついていた。眼鏡がずれるのも構わずに、鉄の表面を平手で叩き続けている。透は叫ばなかった。ただ、二人の間に割り込むようにして、扉の隙間に指をねじ込もうとしていた。隙間などなかった。分厚い鉄の扉は、わずかな光さえ漏らさないほど、ぴったりと閉ざされていた。
扉の向こうから、くぐもった声が聞こえた。
「――防寒着を持ってくるまで、開けねえからな」
主任の声だった。
それきり、何も聞こえなくなった。他の誰の声も。止めてくれる声も、待ってやれと言う声も。扉の向こうの二十人以上の人間は、全員が、黙っていた。
健太の拳が、扉の上で止まった。
叩いても、もう、意味がないのだと分かった。
手のひらを鉄に押しつけたまま、健太はずるずると膝をついた。冷たかった。扉の向こうの冷蔵ルームの冷気が、鉄越しに、手のひらに伝わってくる。ついさっきまで、自分もあの冷たさの中にいた。凍えていた。それでも、あの中にいたかった。
「……小林さん」
小さな声に、健太はのろのろと振り返った。
大森拓海が、眼鏡の奥で目を見開いていた。ひょろりとした体を縮こまらせて、両腕で自分を抱いている。その少し後ろに、佐野透が立っていた。いつもと同じように、何も言わず、ただそこにいた。
三人は、特別に仲がいいわけではなかった。休憩室の隅に、なんとなく集まっていただけだ。居場所のない人間が、居場所のない場所に流れ着いた。それだけの関係だった。
それが今、たった三人で、地獄の中に立っていた。
倉庫の中は、暗かった。非常灯の緑色の光が、ところどころでかすかに明滅している。その光が照らすのは、倒れた棚と、散乱した荷物と、それから――。
拓海が、口元を押さえた。
においがした。鉄のような、生臭いにおい。それが何のにおいなのか、三人とも分かっていた。分かっていて、誰も口にしなかった。床の上の、非常灯の光が届かない暗がりに、何があるのか。誰も、そちらを見ようとはしなかった。
「……備品室、こっちだよな」
健太は、かすれた声で言った。
声に出すと、少しだけ体が動いた。備品室は、冷蔵ルームから倉庫の通路を抜けて、ロッカー室の隣。毎朝、着替えのために通っている場所だ。走れば、一分もかからない。主任の言う通りだった。主任の言う通りだったことが、なぜか悔しかった。
三人は、壁沿いに進み始めた。
足音を立てないように。息を殺して。非常灯の光と光の間の、暗がりを選んで。一歩進むたびに、心臓が喉から飛び出しそうだった。
「……なあ」
拓海が、ほとんど聞き取れないくらいの声で言った。
「あれ、何だと思う」
「あれって」
「外にいたやつ。地震の後に出てきた、あの……」
拓海は、言葉を探すように唇を舐めた。
「魔物、だよ。たぶん」
「は?」
「ゲームとか、アニメとかでよくあるだろ。ダンジョンとか、モンスターとか。ああいうのに、似てる。似てるっていうか、そのまんまだ。地震の後に、急に湧いて出てきた」
健太は、思わず拓海の顔を見た。こんな時に何を言っているんだ、と言いかけて、やめた。拓海の顔は、ふざけている顔ではなかった。真っ青な顔で、それでも必死に、目の前の訳の分からないものに、名前をつけようとしていた。
名前があれば、少しだけ、怖くなくなる。
健太にも、その気持ちは分かった。
「……魔物なら、どうなるんだよ」
「分かんない。でも、もしゲームと同じなら」
拓海が言いかけた、その時だった。
通路の先で、何かが動いた。
三人は、凍りついた。
倒れた棚の陰から、それは姿を現した。灰色の、ざらざらとした皮膚。低く構えた四本の脚。関節が一つ多いような、奇妙な曲がり方をした脚。大型犬くらいの大きさだった。それが、首を巡らせて、こちらを見た。
目が、合った。
次の瞬間、それは床を蹴っていた。
「逃げ――」
誰が叫んだのか、分からなかった。三人は、ばらばらに走り出そうとした。けれど、足がもつれた。拓海が、散らばった荷物に足を取られて、前のめりに転んだ。
灰色の影が、拓海に飛びかかる。
拓海が悲鳴を上げた。声にならない、甲高い悲鳴。両腕で顔をかばい、床の上で必死に身をよじる。灰色の爪が、拓海の作業着の袖を裂いた。
健太は、何も考えていなかった。
気づいたら、足元に転がっていた鉄の棒を掴んでいた。倒れた棚の、折れた支柱だった。それを両手で握りしめて、めちゃくちゃに振り回した。
狙ってなどいなかった。狙えるはずがなかった。ただ、目をつぶって、叫びながら、振り回した。一度目は空を切った。二度目は床を叩いた。三度目に、何かに当たった。
鈍い手応え。
灰色の影が、甲高い声を上げてよろめいた。拓海の上から、わずかに体がずれる。
その隙に、横から何かがぶつかった。
透だった。
透が、灰色の影に体ごと体当たりしていた。ひょろりと背の高い体が、全体重をかけて、それを床に押し倒す。透は何も言わなかった。歯を食いしばって、ただ、それを押さえつけていた。
「小林さん!」
拓海が叫んだ。
健太は、鉄の棒を振り上げた。
押さえつけられてもがく灰色の頭に、それを振り下ろした。何度も。何度も。拓海も起き上がって、近くにあった何かで殴りつけた。透は、最後まで押さえていた。三人とも、叫んでいた。何を叫んでいるのかも分からなかった。
やがて、灰色の影は、動かなくなる。
三人は、その場にへたり込んだ。
誰も、何も言わなかった。荒い息遣いだけが、暗い倉庫の中に響いていた。三人とも、泥と、自分のものか相手のものかも分からない汚れにまみれていた。健太の手は、鉄の棒を握りしめたまま、離れなかった。指が、固まってしまったように動かない。震えが、止まらなかった。
勝った、のだろうか。
違う、と健太は思った。勝ったのではない。たまたま当たっただけだ。たまたま、三人いただけだ。一人だったら、死んでいた。拓海は、死んでいた。
その時だった。
体の奥に、何かが流れ込んでくる感覚があった。
熱い、何か。血管の中を、熱いものが駆け巡っていく。指先まで、足の先まで。固まっていた指が、ふっと緩んだ。鉄の棒が、床に落ちて、乾いた音を立てた。
健太は、自分の手を見た。
何かが、変わっていた。何が、と言われても分からない。けれど、さっきまでの自分とは、どこかが違う。体が軽い。力が、腹の底から湧いてくる。
試しに、そばに倒れていた棚の支柱に手をかけた。鉄の柱だった。普段なら、大人が二人がかりでも持ち上がらない。それが、片手で、浮いた。
「……え」
健太は、声を漏らした。
拓海が、その光景を、口を開けて見ていた。
「……スキルだ」
拓海が、呟いた。
「スキルだよ、それ。魔物を倒したから。経験値、みたいなのが入って……。ゲームと、同じだ。本当に、同じなんだ」
拓海の声が、震えていた。恐怖ではない何かで、震えていた。
健太は、自分の手を握り、開いた。毎日、何百個もの段ボール箱を運んできた手だった。重い荷物は全部、使い走りの自分に回ってきた。文句も言えずに、腰を痛めながら、運び続けてきた。その手が今、鉄の柱を片手で持ち上げていた。
防寒着は、備品室にあった。
ロッカー室の隣の、小さな部屋。地震で棚が倒れていたけれど、厚手の防寒着は、ハンガーにかかったまま無事だった。三人は、抱えられるだけの防寒着を抱えた。健太の腕は、ほかの二人の倍以上の量を、軽々と抱えていた。
帰り道で、もう一体に出くわした。
今度は、小さなものだった。猫くらいの大きさの、灰色の影。それが、透の足元に飛びかかった。
透は、悲鳴を上げなかった。黙って、足元の荷物の陰に身を伏せた。灰色の影は、なぜか透を見失ったように、きょろきょろと首を巡らせた。その背後から、透は無言で、手にした棒を振り下ろした。
一撃だった。
小さな影が動かなくなった時、透の体が、一度だけびくりと震えた。健太と同じように、何かが流れ込んだのだと、二人には分かった。
透は、自分の手のひらをじっと見つめていた。それから、ほんのわずかに、口の端を持ち上げた。
健太は、透が笑うところを、初めて見た。
冷蔵ルームの前まで戻ってきた時、三人は、扉の前で立ち止まった。
分厚い鉄の扉。数十分前、三人をこの外へ押し出した扉。
健太は、抱えた防寒着の重さを感じていた。重くはなかった。少しも。
扉の向こうには、二十人以上の人間がいる。寒さに震えて、この防寒着を待っている。主任も、いる。三人を外へ押し出した主任も。目を伏せて、仕方ないと呟いた社員たちも。誰も、止めてくれなかった。
あいつらは、俺たちを捨てた。
健太は、その言葉を、心の中で、ゆっくりと噛みしめた。
死ぬと思っていた。外に出された瞬間、ここで死ぬのだと思った。冷たい鉄の扉が閉まる音を聞いた時の、あの、足元が崩れていくような感覚。一生、忘れられない気がした。
けれど、死ななかった。
それどころか。
健太は、自分の手を見た。拓海を見た。透を見た。
今、扉の向こうにいる全員の命を握っているのは、自分たちだ。この防寒着がなければ、あいつらは凍える。扉の外で魔物と戦えるのは、自分たちだけだ。
怒鳴られ、謝り、使い走りにされてきた三人が。
拓海が、震える声で、小さく笑った。透は、何も言わなかった。けれど、その目が、扉をまっすぐに見ていた。
健太は、拳を握った。
扉を、叩くために。




