第3話 鉄の扉
冷蔵ルームの中は、暗かった。
天井の照明は消えていて、冷却装置の低い唸りも止まっていた。停電しているのだと、誰かが言った。それでも、分厚い断熱材に囲まれたこの部屋は、外の真夏が嘘のように冷え切っていた。電気が止まっても、冷気はすぐには逃げていかない。
明かりは、何人かがかざしたスマートフォンのライトだけだった。白い光の輪が、壁際に積まれた段ボール箱や、棚に並んだ食品のケースや、床に座り込んだ人々の顔を、ぼんやりと照らしていた。
結は、部屋の隅に膝を抱えて座っていた。
数えたわけではないけれど、二十人と少し、いるように見えた。ネイビーの作業着が多い。社員の人たちだ。アルバイトの紺色は、ほんの数人しかいなかった。今朝の朝礼の列には、もっとたくさんの紺色が並んでいたはずなのに。
その数人の中に、あの三人がいた。
眼鏡の人と、小柄な人と、背の高い人。三人は、結とは反対側の壁際に、身を寄せ合うように座っていた。小柄な人は、膝の間に顔を埋めていた。
誰も、あまり喋らなかった。
時々、誰かが小さな声で何かを言い、誰かが短く答える。それだけだった。みんな、扉の方を気にしていた。分厚い鉄の扉。その向こうで何が起きているのか、誰も確かめようとはしなかった。
最初のうちは、何人もがスマートフォンを握りしめていた。家族に連絡しようとしているのだと分かった。けれど、どの画面にも、電波を示すアンテナは立っていなかった。電話も、メッセージも、どこにもつながらない。一人、また一人と、画面を消していく。電池がもったいない、と誰かが言った。
「すぐに、助けが来るよな」
誰かが、ぽつりと言った。
誰も答えなかった。
消防が来る。警察が来る。自衛隊が来る。地震が起きたのだから、きっと誰かが助けに来る。そう思いたかった。けれど、扉の外にいたものを見てしまった人たちは、それがどういうものなのか、誰も説明できなかった。説明できないものを、誰が助けに来てくれるのか、分からなかった。
結は、自分の頭に手をやった。こめかみの傷は、血が乾いて固まっていた。触ると、まだずきずきと痛む。誰かが、ハンカチを貸してくれようとした気がしたけれど、よく覚えていない。
頭の奥の違和感は、まだそこにあった。
引き出しが一つ増えたような、あの感覚。気のせいだと思おうとしても、消えなかった。けれど、今はそんなことを気にしている余裕はなかった。
時間が、過ぎていく。
スマートフォンの時計が、昼を過ぎ、午後を過ぎていく。扉の外からは、時々、何かが動く音がした。重たいものが倒れる音。何かを引きずる音。そのたびに、部屋の中の全員が息を止めた。音が遠ざかると、誰かが小さく息を吐いた。
助けは、来なかった。
夕方になる頃には、寒さが、体の芯まで染み込んでいた。
最初は、涼しくてちょうどいいくらいだった。外の熱気の中を走ってきた体には、冷たい空気がありがたかった。けれど、何時間もじっとしているうちに、冷気は少しずつ、確実に、体温を奪っていった。
結は、作業着の袖の中に手を引っ込めた。それでも指先が冷たい。足の感覚が、だんだんと鈍くなっていく。吐く息が白い。隣に座っていたパートの女の人が、ずっと歯をかちかちと鳴らしていた。
夏の服装だった。誰もが。半袖の作業着や、薄いシャツ一枚の人もいる。ここは、本来、防寒着を着て短時間だけ入る場所なのだ。こんなに長くいるための場所ではない。
「……おい、大丈夫か」
声がして、ライトの光がそちらに向いた。
年配の社員の男の人が、壁にもたれたまま、ぐったりとしていた。唇が紫色になっている。隣の人が肩を揺すると、うっすらと目を開けたけれど、すぐにまた閉じてしまった。
空気が、張り詰めた。
このままでは、まずい。全員が、それを分かっていた。
「防寒着だ」
誰かが言った。
「冷凍庫作業用の防寒着が、備品室にある。ロッカー室の隣の。あれがあれば、なんとかなる」
備品室。結も知っていた。倉庫の、ここからそう遠くない場所にある、小さな部屋だ。厚手の上着や手袋が、何着もかけられていた。
けれど、備品室は、この扉の外にある。
誰も、何も言わなかった。
扉の外に、何がいるのか。みんな、見てしまっていた。
「――お前ら、行ってこい」
低い声が、沈黙を破った。
主任だった。
主任は、壁際から立ち上がって、部屋の反対側を見下ろしていた。あの三人が座っている場所を。ライトの光が、主任の太い首と、苛立ったような横顔を照らしていた。
「え……」
小柄な人が、顔を上げた。
「聞こえなかったのか。お前ら三人で、防寒着取ってこいっつってんだよ」
「で、でも、外は……」
「外が何だよ。すぐそこだろうが。走れば一分もかかんねえよ」
「外に何がいるか、見たでしょう」
眼鏡の人が言った。声が震えていた。
「見たよ。だから何だ。全員ここで凍え死ぬのを待つのか。誰かが行かなきゃなんねえんだよ」
「じゃあ、なんで俺たちなんですか」
「つべこべ言うな」
主任は、苛立ったように舌打ちをした。
「若い男が三人もいて、黙って座ってるつもりか。女に行かせろってのか? 悲鳴上げて終わりだろうが。いつも役に立たねえんだから、こういう時くらい役に立てよ」
若いから、ではない。男だから、でもない。結には、それが分かった。
この部屋には、他にも若い男の人はいた。体の大きな社員の人もいた。けれど主任は、その人たちには目もくれなかった。主任が選んだのは、怒鳴れば黙る相手だった。逆らえない相手だった。毎日のように怒鳴られて、すみませんと頭を下げてきた三人だから、選ばれたのだ。
部屋の中の誰も、何も言わなかった。
結は、周りの人たちの顔を見た。ライトの光の届く範囲で、誰もが目を伏せていた。社員の人たちも、パートの人たちも。誰も、主任の方を見なかった。誰も、三人の方も見なかった。
仕方ない、と誰かが小さく呟いたのが聞こえた。
仕方ない。誰かが行かなければならない。そして、自分ではない。
その空気が、冷気よりも冷たく、部屋の中に満ちていくのが分かった。
「……待ってください、主任」
声を上げたのは、天城さんだった。
扉のそばに座り込んでいた天城さんが、ゆっくりと立ち上がった。まだ顔色は悪かった。それでも、主任の方へ一歩踏み出した。
「それは、さすがに……。外にいるの、あれ、普通じゃないですよ。三人だけで行かせたら」
「じゃあ、お前が行くか?」
主任が、天城さんを振り返った。
天城さんの言葉が、止まった。
「お前が代わりに行くなら、それでもいいぞ。正社員さんよ。お前が行って、全員分の防寒着、取ってきてくれるか?」
天城さんは、口を開いた。何か言おうとした。けれど、その口からは、何の言葉も出てこなかった。
ほんの数時間前、天城さんは、扉の向こうにいたものを見ていた。結の腕を掴んで引き込んだ時の、あの震える手。あの、焦点の合わない目。
天城さんの手が、また震え始めているのが、結の場所からも見えた。
「……いや、俺は」
「だろ? だったら黙ってろ」
主任は、吐き捨てるように言った。
天城さんは、それ以上何も言わなかった。言えなかったのだと、結には分かった。天城さんは、唇を噛んで、また扉のそばに座り込んだ。誰も、天城さんを責めなかった。誰も、天城さんの代わりに声を上げなかった。
結も、そうだった。
結は膝を抱えたまま、できるだけ体を小さくしていた。
主任の目が、部屋の中を見回すたびに、心臓が跳ねた。お願い、こっちを見ないで。こっちに来ないで。
結も、弱い側の一人だった。この部屋で、主任に逆らえない人間の一人。主任が言うことを聞かせられる相手を探しているのなら、自分が選ばれてもおかしくなかった。
主任の目が、一瞬だけ、結の上で止まった。
息が止まった。
けれど、主任はすぐに目を逸らした。女の子なんか外に出したって、悲鳴を上げて終わりだ。主任の目は、そう言っていた。
結は、自分の体から力が抜けていくのを感じた。
よかった、と思った。
思ってしまった。
その瞬間、自分がひどく汚いものになった気がした。三人のうちの誰かと目が合いそうになって、結は慌てて顔を伏せた。あの時の、出荷エリアの時と同じように。何も見なかったふりをした。
何も言わなかった。
「ほら、さっさと行け」
主任が、三人の前に立った。
小柄な人は、まだ座ったまま動かなかった。主任がその腕を掴んで、乱暴に引っ張り上げた。小柄な人が、短い悲鳴のような声を上げた。眼鏡の人が何か言いかけて、主任に睨まれて口をつぐんだ。背の高い人は、最後まで何も言わなかった。ただ、ゆっくりと立ち上がった。
三人が、扉の前に押し出される。
何人かの社員が、扉の取っ手に手をかけた。
「いいか、開けたらすぐ閉める。取ってきたら、扉を三回叩け。三回だぞ。それ以外は開けねえからな」
主任が言った。
三回。その合図を、ちゃんと聞いてもらえるのか。三人の誰も、それを確かめなかった。確かめる余裕もなかった。
鉄の扉が、重たい音を立てて、少しだけ開いた。
隙間から、外の空気が流れ込んでくる。生ぬるい、夏の空気。それに混じって、何かのにおいがした。鉄のような、焦げたような、嗅いだことのないにおい。
三人が、その隙間の向こうへ押し出された。
最後に出ていく小柄な人が、一度だけ、振り返った。
その目が、部屋の中の誰かを探しているように見えた。助けてくれる誰かを。止めてくれる誰かを。
誰も、目を合わせなかった。
扉が、閉まった。
重たい音が、冷蔵ルームの中に響いた。何人もの大人が、扉に体を押しつけて、それが二度と開かないように押さえていた。
しばらくの間、誰も動かなかった。
扉の向こうで、足音がした。三人の足音だ。慌ただしく遠ざかっていく。それから、静かになった。
部屋の中で、誰かが小さく息を吐いた。
結は、膝を抱えた腕に、顔を埋めた。




