第2話 その日
その日も、いつもと同じ朝だった。
働き始めて十二日目。朝礼で主任が「事故のないように」と言い、列がばらけ、結はハンディ端末を受け取って二階のピッキングエリアへ上がった。夏休みも、もう半分近くが過ぎていた。窓のない倉庫の中にいると、外が晴れているのか曇っているのかも分からない。それでも、トラック用の出入り口から吹き込んでくる風の熱さで、今日も暑いのだということだけは分かる。
台車を押し、番地を確かめ、箱を開ける。
十二日目になると、端末がピッと鳴る前に、次に行く棚がなんとなく分かるようになっていた。自分の手が、自分の知らないうちに仕事を覚えていく。それが少しだけ誇らしかった。誰にも言えない、小さな誇らしさだった。
十時を少し過ぎた頃だった。
最初に気づいたのは、音だった。
低い、地鳴りのような音。遠くを大きなトラックが通り過ぎる時の音に似ていたけれど、それよりずっと深くて、床の下から、建物の骨組みの奥から、響いてくる。
次に、足元が揺れた。
ふわり、と体が浮くような感覚があった。棚に並んだ段ボール箱が、カタカタと一斉に震え出す。天井の照明が、ぶらぶらと左右に揺れる。誰かが「地震?」と言った。その声が言い終わらないうちに、揺れは一気に大きくなった。
縦に、横に、建物ごと揺さぶられる。
結は台車の取っ手にしがみついた。立っていられない。棚と棚の間の通路で、膝をつく。頭の上で、何かがきしむ音がした。鉄の棚が、悲鳴のような音を立てて揺れている。
どこかで、スマートフォンの緊急地震速報が一斉に鳴り始めた。あの耳障りな警告音が、倉庫のあちこちから重なり合って響く。結のポケットの中でも、端末が震えていた。
「しゃがんで! 棚から離れて!」
誰かが叫んでいる。でも、どこへ離れればいいのか分からない。通路の両側は、天井まで届く棚だ。逃げ場がない。
結は頭を抱えて、床にうずくまった。
段ボール箱が、落ちてくる。
ドサッ、ドサッと、重たい音が次々に響く。すぐ近くで、箱が床に叩きつけられて、中身が散らばる音がした。結は目をつぶって、体を小さく丸めた。
――お願い、止まって。止まって。止まって。
揺れの中で、一際大きな音がした。
頭のすぐ上で、何かが傾く気配。
目を開けて見上げた時には、もう遅かった。棚の一番上の段から、いくつもの箱が雪崩のように崩れてくるのが見えた。
鈍い衝撃が、頭を打った。
視界が、白く弾けた。
――音が、聞こえる。
遠くで、誰かが叫んでいる。何人も、何人も。言葉にならない声。悲鳴。何かが壊れる音。重たいものが引きずられる音。それから、聞いたことのない音。獣の唸り声のような、けれど、どんな獣とも違う音。
夢を見ているのだと思った。
頭が、割れるように痛い。
結は、ゆっくりと目を開けた。
暗かった。
天井の照明が消えていた。代わりに、壁際の非常灯だけが、緑色の弱い光を放っている。その光も、時々、息をするように明滅していた。
自分がどこにいるのか、すぐには分からなかった。冷たいコンクリートの床に横たわっている。体の上に、何かが乗っている。重い。押しのけようとして腕を動かすと、段ボール箱が転がり落ちた。
そうだ。地震。棚から、箱が落ちてきて。
結は体を起こそうとして、頭の痛みに顔をしかめた。こめかみのあたりに手をやると、ぬるりとした感触があった。指先を見る。非常灯の緑色の光の中で、それは黒く見えた。
血だ、と分かるまでに、少しかかった。
周りは、ひどい有様だった。通路を挟む棚のいくつかが傾き、段ボール箱がそこら中に散乱している。結の体の周りにも、箱が積み重なるように崩れていた。この箱の山の中に埋もれて、結は気を失っていたらしい。
――どのくらい、こうしていたのだろう。
ポケットの中のスマートフォンを取り出す。画面は点いた。けれど、電波を示すアンテナは一本も立っていなかった。時刻は、十時五十二分。四十分以上、気を失っていたことになる。
――誰も、いない。
ピッキングエリアには、さっきまで何人ものアルバイトがいたはずだった。今は誰もいない。散らばった箱と、倒れた台車と、静まり返った通路があるだけだった。
――みんな、逃げたんだ。
地震の時は、外へ避難する。研修の時に、そう教わった。揺れが収まったら、決められた避難経路で、建物の外の集合場所へ。みんな、その通りにしたのだろう。箱の山の陰に埋もれていた結には、誰も気づかないまま。
――置いていかれた。
その言葉が浮かんで、結は唇を噛んだ。いつものことだ。今さら、何を。
――とにかく、外へ出よう。みんなのいる集合場所へ。
立ち上がろうとして、結はふと、足元に目を落とした。
崩れた箱の山の、一番下。結が倒れていたすぐ横の、重たい箱の下から、何かがはみ出していた。
細い、脚のようなものだった。
何の脚なのか、分からなかった。猫でも、犬でも、鳥でもない。灰色がかった、ざらざらとした皮膚。関節が、一つ多いような気がした。先端には、小さな爪が三本。それはぴくりとも動かなかった。崩れてきた箱の下敷きになって、死んでいるのだと分かった。
結は、思わず後ずさった。
――何、これ。
見たことのない生き物だった。図鑑でも、テレビでも、見たことがない。こんなものが、どうして倉庫の中に。
その時、奇妙な感覚があった。
頭の奥に、何かが一つ増えているような、違和感。引き出しが一つ、知らないうちに付け足されたような。けれど、それが何なのか、結には分からなかった。頭を打ったせいだと思った。きっと、そうだ。
遠くで、また悲鳴が上がった。
今度は、はっきりと聞こえた。外からだ。一人ではない。何人もの悲鳴が重なり合い、それに混じって、あの聞いたことのない唸り声が響く。
結の背筋を、冷たいものが走った。
何かが、起きている。地震だけではない、何か、もっとおかしなことが。
結は、ふらつく足で階段へ向かった。手すりにすがりながら、一段ずつ下りていく。一階に近づくにつれて、音が大きくなる。悲鳴。何かが割れる音。誰かの名前を呼ぶ声。
一階に下りた瞬間、結は足を止めた。
トラック用の出入り口が、開いていた。
いつものように、荷物を積み込むために開け放たれていたシャッター。その向こうに、昼の光が見える。真夏の、白い、まぶしい光。
その光の中で、人が倒れていた。
一人ではなかった。何人も。集合場所へ向かったはずの人たちが、駐車場のアスファルトの上に、ばらばらに倒れていた。その間を、何かが動いていた。いくつもの影が。さっき箱の下で見た、あの生き物と同じ灰色の影が。もっと大きなものも、いた。
結は、それ以上を見られなかった。
見てはいけないものだと、体が先に理解していた。
「こっちだ! 冷蔵ルームへ!」
叫び声が、倉庫の奥から響いた。
振り向くと、非常灯の薄明かりの中を、何人かの人影が奥へ向かって走っていくのが見えた。ネイビーの作業着。社員の人たちだ。その中に、紺色の作業着も混じっている。
「急げ! 中に入ってくるぞ!」
中に。
結は、出入り口の方を振り返った。
光の中の影の一つが、こちらを向いていた。
灰色の、低い姿勢の何か。それが、ゆっくりと、倉庫の中へ足を踏み入れる。光と影の境目を越えて、非常灯の緑色の中へ。
目が、合った気がした。
結は走った。
頭の痛みも、足のふらつきも、全部忘れて走った。散らばった荷物を飛び越え、倒れたパレットを避けて、倉庫の奥へ。冷蔵ルームへ。あの重たい鉄の扉の部屋へ。
背後で、何かが荷物を蹴散らす音がした。近づいてくる。爪がコンクリートを掻く音。荒い息遣い。
振り返らなかった。振り返ったら、足が止まってしまう気がした。
冷蔵ルームの扉が見えた。
分厚い鉄の扉が、半分ほど開いていた。その隙間から、何人もの人が中へ転がり込んでいく。最後の一人が中に入ると、扉が、ゆっくりと閉まり始めた。
「待って……!」
声が、かすれた。
届かない、と思った。
扉の隙間が、どんどん細くなっていく。あと少し。あと少しなのに。
その時、閉まりかけた隙間から、腕が伸びてきた。
ネイビーの作業着の袖。日に焼けた手。
その手が、結の腕を掴んだ。
強い力で引っ張られて、結の体は、扉の隙間に吸い込まれるように転がり込んだ。冷たい空気が、全身を包む。
背後で、鉄の扉が閉まった。
重たい、腹の底に響くような音がした。直後、扉の向こうで、何かが激しくぶつかる音がした。一度。二度。鉄の扉が、内側にわずかにたわむ。誰かが悲鳴を上げた。何人もの大人が、扉に体を押しつけて、必死に押さえている。
三度目は、来なかった。
扉の向こうで、爪が鉄を掻く音がしばらく続き、やがて、それも遠ざかっていった。
冷蔵ルームの中に、荒い息遣いだけが残った。
結は、床に座り込んだまま、自分の腕を掴んだ手の主を見た。
天城さんだった。
天城さんは、扉に背中を押しつけたまま、ずるずるとその場に崩れ落ちるように座り込んでいた。肩が大きく上下している。額から流れた汗が、顎の先から滴っていた。非常灯の薄明かりの中でも分かるほど、顔から血の気が引いていた。結の腕を掴んでいた手は、離した後も、小刻みに震え続けていた。
「……大丈夫?」
かすれた声だった。息の合間に、絞り出すように。結に向けた言葉のはずなのに、天城さんの目は結を見ていなかった。焦点の合わない目で、閉じた鉄の扉の方をじっと見つめている。扉の向こうに、まだ何かがいるのではないかと、確かめるように。
大丈夫かと聞いているその人が、一番、大丈夫ではない顔をしていた。
結は、何も答えられなかった。
ただ、震える手で、頷くことしかできなかった。
吐く息が、白かった。




