第1話 誰とも話さなくていい場所
倉庫の朝は、蛍光灯の唸る音から始まる。
八時二十分。高い天井から吊るされた照明が一斉に点くと、灰色のコンクリートの床と、どこまでも続く鉄の棚が、白っぽい光の中に浮かび上がる。棚には段ボール箱がぎっしりと詰め込まれていて、箱の側面に印刷された商品名や数字が、ずらりと同じ方向を向いて並んでいた。
白瀬結は、支給された紺色の作業着の袖を一度だけ折り返して、朝礼の列の一番後ろに立った。
働き始めて、今日で八日目になる。
最初の三日間は、ほとんど何も覚えられなかった。棚の番地の読み方、ハンディ端末の使い方、台車の押し方、伝票の見方。教わったことが頭の中で渋滞を起こして、一つ覚えると一つ忘れた。四日目に初めて、指示されたものを一度も間違えずに集め終えて、誰にも気づかれないように、小さく息を吐いた。
八日目の今は、ようやく流れが分かってきたところだ。
「――じゃあ今日も事故のないように。以上」
前に立った主任が、短く朝礼を締めた。四十代くらいの、首の太い男の人だった。声が大きく、いつも少しだけ苛立っているように見える。主任が何か言うたびに、列の空気がわずかに硬くなるのを、結は八日間で覚えていた。
列がばらけ、それぞれが持ち場へ散っていく。
結の今日の持ち場は、二階のピッキングエリアだった。ハンディ端末の画面に表示された番地へ行き、指示された商品を指示された数だけ取って、台車のコンテナに入れる。それを繰り返す。棚と棚の間を、台車を押して歩き回るだけの仕事だった。
誰とも話さなくていい。
それが、この仕事のいちばん好きなところだった。
ピッキングエリアには、他にも何人ものアルバイトが散らばっていた。みんなイヤホンを片耳に入れたり、黙々と端末を見つめたりしていて、目が合っても会釈くらいで終わる。誰も結が誰の妹かなんて知らないし、知ろうともしない。結はここでは、ただの「高校生のバイトの子」だった。
それが、こんなに楽だなんて知らなかった。
台車の車輪がコンクリートの床を転がる音が、規則正しく響く。端末がピッと鳴る。棚の番地を確かめる。箱を開け、商品を取る。数を数える。コンテナに入れる。また端末がピッと鳴る。
頭の中を、何も考えなくていい時間が流れていく。母の声も、姉の笑い声も、教室のざわめきも、ここまでは追いかけてこなかった。
「お、高校生の子。今日二階?」
声をかけられて、結は肩を跳ねさせた。
振り返ると、棚の向こうから、ネイビーの作業着の男の人が顔を出していた。アルバイトの紺色とは、少しだけ色が違う。正社員の人の色だ。
天城さん、という名前だった。胸のネームプレートで覚えた。二十代半ばくらいで、日に焼けた顔に、いつも人の良さそうな笑みを浮かべている。初日に結に仕事を教えてくれたのが、この人だった。
「は、はい」
「そっか。昨日教えた端末のやつ、大丈夫だった? あの欠品のエラー出るやつ」
「……大丈夫、でした」
「よかった。あれ、俺も最初分かんなくてさ。主任にめちゃくちゃ怒られたんだよ」
天城さんはそう言って、少し照れくさそうに笑った。それから、結の台車のコンテナをちらりと見て、「お、もうそんなに集めたの。早くなったね」と言った。
結は何と返していいか分からず、小さく頭を下げた。
天城さんは、それ以上は何も言わずに「じゃ、無理しないでね」と手を上げて、棚の向こうへ消えていった。
変な人だ、と結は思った。わざわざアルバイトの高校生に話しかけて、褒めて、何も求めずに去っていく。家でも学校でも、そういう人に会ったことがなかった。みんな、結に話しかける時は、たいてい姉のことを聞きたい時だった。
ほんの少しだけ、胸の奥が温かくなった。そのことに気づいて、結は慌てて端末の画面に目を落とした。
昼休みは、休憩室の隅で、コンビニで買ったおにぎりを食べた。
母からは今日も『お昼、ちゃんと食べなさいね』とだけメッセージが来ていた。既読をつけて、返事はしなかった。
休憩室には長机がいくつも並んでいて、パートの女の人たちのグループが、窓際の席で賑やかに話していた。社員の人たちは、別の部屋で食べているらしい。結の座る隅の席の近くには、いつも同じ三人の若い男の人がいた。
三人とも、アルバイトだ。結より何歳か年上で、大学生か、それよりもう少し上くらいに見えた。
一人は、眼鏡をかけた、ひょろりとした人だった。休憩中はずっとスマートフォンでゲームをしていて、時々、画面に向かって小さく何かを呟いている。一人は、小柄で、いつも少し背中を丸めている人。主任に呼ばれるたびに、反射のように「すみません」と言っているのを、結は何度も聞いた。もう一人は、背が高くて無口な人で、三人の中にいるのに、なぜかいつも一人だけ少し離れたところに座っていた。
三人が仲良しなのかどうかは、よく分からなかった。会話をしているところは、ほとんど見たことがない。ただ、休憩室で居場所のない人間が、なんとなく同じ隅に流れ着いた。そんなふうに見えた。
結も、たぶん同じだった。
午後は、一階の出荷エリアの手伝いに回された。
一階は、二階よりもずっと騒がしい。フォークリフトが行き交い、パレットに積まれた荷物が次々と運ばれていく。奥の壁には、トラックを横付けするための大きな出入り口がいくつも並んでいて、その日も、そのうちの何か所かが大きく開け放たれていた。シャッターの向こうに、銀色の箱を背負ったトラックの荷台が口を開けて待っている。そこから吹き込んでくる外の熱気が、倉庫の冷えた空気と混ざり合って、生ぬるい風になって足元を流れていった。
結の仕事は、出荷前の荷物の数を数えて、伝票と照らし合わせることだった。
「白瀬さん、これ冷蔵の方に戻してきてくれる?」
パートの女の人に頼まれて、結は小さな箱を抱えて、倉庫の奥へ向かった。
この倉庫は、食料品も扱っている。奥の一角には、冷蔵品を保管するための大きな冷蔵ルームがあった。分厚い鉄の扉の前に立つと、それだけで、ひやりとした空気が漂ってくる。
結は両手で取っ手を握り、体重をかけて扉を引いた。重い。最初に開けた時は、びくともしなくて泣きそうになった。今は、なんとか一人で開けられるようになった。
中は、夏だということを忘れるほど寒かった。吐く息がうっすらと白くなる。棚に箱を戻して、急いで外に出る。鉄の扉が、重たい音を立てて閉まった。
その時だった。
「てめえ、何回言ったら分かるんだよ!」
怒鳴り声が、倉庫の高い天井に跳ね返った。
結は思わず足を止めた。
出荷エリアの端で、主任が、あの三人の前に立っていた。正確には、三人のうちの小柄な人の前に。主任の手には伝票が握られていて、それが何度も、小柄な人の胸元に突きつけられていた。
「数が合ってねえっつってんだろ。お前、ちゃんと見たのかよ。見てねえだろ。見てたらこんなミスしねえんだよ」
「す、すみません……」
「すみませんじゃねえんだよ。すみませんで済むなら苦労しねえんだよ。お前らみたいなのがいるから、こっちが残業する羽目になんだろうが」
お前ら、と主任は言った。小柄な人だけではなく、その横に立っていた眼鏡の人と、背の高い人にも、同じ目を向けていた。二人は何も言わず、ただ床を見ていた。
結の位置からでも、伝票の数字が見えた。間違えていたのは、たぶん、あの三人ではない。荷物を積み込んだのは、別の、主任と仲のいい社員の人だった。結は、さっき伝票と照らし合わせた時に、それを見ていた。
見ていた。
でも、結は何も言わなかった。
言えるはずがなかった。八日目の、高校生のアルバイトが、主任に向かって「違います」なんて言えるはずがない。言ったら、次に怒鳴られるのは自分だ。自分には関係ない。自分は、ただ荷物を戻しに来ただけだ。
結は目を逸らした。
そのまま、何も見なかったふりをして、出荷エリアの反対側へ歩いていった。背中の向こうで、主任の怒鳴り声がまだ続いていた。誰も止めなかった。周りにいた社員も、パートの人たちも、手を止めずに自分の仕事を続けていた。ここでは、それが普通のことなのだと、結は思った。
途中で、天城さんとすれ違った。天城さんも、主任の方を見ていた。少しだけ眉を寄せて、何か言いたそうな顔をしていた。けれど、結と目が合うと、天城さんは困ったように笑って、肩をすくめただけだった。
結も、小さく会釈を返した。
それで、終わりだった。
仕事が終わったのは、夕方の五時を少し過ぎた頃だった。
ロッカーで作業着を脱ぎ、自分の服に着替えると、結はトートバッグを肩にかけて倉庫を出た。外はまだ明るく、昼間の熱気が、アスファルトの上に重たく溜まっていた。
駅までの道を、ゆっくり歩く。
大きな道路の向こうに、同じような灰色の倉庫がいくつも並んでいる。どの倉庫の前にもトラックが停まっていて、荷物を積み込む人たちが、汗を拭いながら動き回っていた。この街は、たぶん、夜もずっとこんなふうに動き続けているのだろう。
ふと、昼間の光景が頭をよぎった。
怒鳴られていた小柄な人の、丸まった背中。床を見つめていた眼鏡の人と、背の高い人。何も言わなかった自分。
結は首を振って、その記憶を追い払った。
関係ない。自分は、ここで目立たずに、静かに、夏休みが終わるまで働いていればいい。誰とも話さず、誰の味方もせず、誰の敵にもならない。それが一番いい。
家でも、学校でも、ずっとそうしてきたのだから。
駅のホームに着くと、ちょうど上りの各駅停車が滑り込んでくるところだった。冷房の効いた車内に乗り込んで、ロングシートの端に座る。イヤホンを耳に差す。音楽は、やっぱり流さなかった。
窓の外で、倉庫の街がゆっくりと遠ざかっていく。
明日も、来よう。
結は、そう思った。家にいるより、学校にいるより、ここの方がずっといい。誰も自分を見ていない場所。誰とも話さなくていい場所。
八日目にして、結はようやく、自分の居場所らしきものを見つけた気がしていた。
電車が、ガタンと一度だけ大きく揺れた。
結は窓に額をつけて、目を閉じた。




