プロローグ 各駅停車
ドアが開くたびに、夏が乗り込んでくる。
冷房の効いた車内に、むわりとした熱気が流れ込み、蝉の声と、ホームの白い光が一緒になだれ込んでくる。ドアが閉まれば、それもすぐに冷えた空気に押し戻されて、車内はまた、低い走行音と誰かの笑い声だけになった。
白瀬結は、ロングシートの一番端に座っていた。手すりに肩を預けるようにして、膝の上のトートバッグを両腕で抱えている。耳にはイヤホンを差していたけれど、音楽は流していない。誰にも話しかけられないための、ただの栓だった。
向かいの席では、小学生くらいの兄弟が、プールバッグを足元に置いて、携帯ゲームの画面をのぞき込んでいた。その隣では、大学生らしい女の子たちが、日焼け止めの話で盛り上がっている。ドアの近くには、麦わら帽子をかぶった小さな女の子と、その手を引く母親。どこかの海か、アウトレットか、おばあちゃんの家か。車内のどこを見ても、夏休みの顔をした人ばかりだった。
結だけが、どこにも行かない顔をしている気がした。
窓の外を、ビルが流れていく。ガラス張りの壁に夏の空が映って、雲がゆっくりと形を変える。線路沿いのマンションのベランダには、色とりどりの洗濯物がはためいていた。どこかの家の窓辺で、風鈴が揺れているのが一瞬だけ見えた。
――結、夏休みは、おうちのこと手伝ってくれるわよね。
母の声が、耳の奥でよみがえる。
夏休みの前の晩だった。台所で夕飯の片づけをしていた母は、振り向きもせずに言った。水道の音にまぎれて、それはお願いというより、決まったことの確認のように聞こえた。
――玲奈ちゃん、八月はオーディションが続くでしょう。撮影も入ってるし、お母さん、付き添いで家をあけることが多くなるの。だから結がいてくれると、本当に助かるのよ。
玲奈ちゃん。母は姉のことを、いつもそう呼ぶ。結のことは、結、だ。小さな違いだと、自分でも思う。思うけれど、十五年も聞き続けていると、その小さな違いが、耳の中に砂のように溜まっていく。
リビングのソファでは、姉の玲奈がスマートフォンをいじっていた。肩までの明るい髪を指に巻きつけながら、画面の中の誰かに返事を打っている。テレビの音、母の声、水道の音。その全部が、姉を中心に回っているように見えた。
――わたし、バイトするから。
気づいたら、口が勝手にそう言っていた。
水道の音が止まった。母が、初めて振り向いた。
――バイト? あなたが?
その「あなたが」に、どれだけのものが詰まっていたのか、結にはよく分かった。人と話すのが苦手で、クラスでも目立たなくて、姉みたいに笑顔ひとつで場を明るくすることもできない。そんな子が、どこで何をするっていうの。母の目は、そう言っていた。
――もう決めたから。
――決めたって、まだ何も聞いてないわよ。玲奈ちゃんの大事な時期なのに、どうしてわざわざそういうことするの。
――お姉ちゃんの大事な時期は、いつもでしょ。
言ってから、しまったと思った。でも、もう遅かった。母の顔から表情が抜け落ちて、それから、ゆっくりと困ったような顔になる。怒られるより、その顔の方がずっと嫌だった。まるで、聞き分けのない子どもを前にしたような顔。
ソファの方から、姉の声が飛んできた。
――いいじゃん、お母さん。結もたまには外に出た方がいいって。ずっと部屋にこもってるんだし。
顔も上げずに、姉はそう言った。かばってくれたのだと、たぶん姉は思っている。悪気がないのは分かっていた。姉はいつだって悪気がない。悪気がないまま、いつも結の一番痛いところを、何でもないことのように通り過ぎていく。
結局、その夜はそれ以上の言い合いにはならなかった。母はため息をひとつついて、また流しに向き直った。父はその日も帰りが遅く、食卓には父の分のおかずが、ラップをかけられて置かれたままだった。
自分の部屋に戻ってから、結はベッドの上でスマートフォンを握りしめ、求人サイトを開いた。何も決めていなかった。本当に、何ひとつ。母に言い返したくて、口から出ただけの言葉だった。
それでも、引っ込めたくはなかった。ここで「やっぱりやめる」と言ったら、母のあの顔が正しかったことになる。
条件の欄に、指で一つずつ打ち込んでいった。
未経験可。高校生可。短期。
それから少し考えて、もう一つ。
接客なし。
出てきた求人を、上から順に眺めていった。カフェ、コンビニ、イベントスタッフ。どれも無理だと思った。笑顔で、元気よく、はきはきと。求人の写真に写っている人たちは、みんな姉に似た笑い方をしていた。
スクロールしていく指が、ある求人の前で止まった。
倉庫内での軽作業。ピッキング、仕分け、梱包。黙々とできるお仕事です。
黙々と。その四文字が、やけに優しく見えた。
勤務地は、都内から電車で一時間以上かかる、聞いたこともない町だった。地図で見ると、大きな道路のそばに、四角い建物がいくつも並んでいる。物流倉庫が集まった地域らしい。遠い、と思った。それから、遠いからいい、と思い直した。
そこなら、誰も姉のことを知らない。
学校では、そうはいかなかった。姉は結と同じ高校の三年生で、校内で知らない人はいない。廊下を歩けば、知らない上級生に呼び止められる。
――ねえ、白瀬玲奈の妹でしょ? 似てないね。
似てないね、まで言われるのが、いつものことだった。悪気のない声で、悪気のない顔で。担任の先生でさえ、最初の面談で「お姉さんにはお世話になったよ」と笑った。入学してまだ三か月なのに、結はもう、校舎のどこにいても「玲奈の妹」だった。
だから、遠い場所に行きたかった。姉の名前も、姉の顔も、誰も知らない場所。誰とも話さなくていい場所。
その夜のうちに、結は応募のボタンを押した。電話の面接では声が震えたけれど、相手の男の人は、高校生の夏休み短期ならいつでも歓迎だと、拍子抜けするほどあっさり言った。
電車が、また駅に止まる。
ドアが開いて、夏が入ってくる。プールバッグの兄弟が、母親らしい人に呼ばれて慌てて降りていった。ドアが閉まると、車内は少しだけ広くなった。
乗り換えの駅で、結は各駅停車に乗り換えた。急行の方が早いけれど、目的の駅には止まらない。それに、急ぐ理由もなかった。一駅ずつ止まりながら、ゆっくりと家から遠ざかっていく。そのくらいの速さが、今の自分にはちょうどいい気がした。
窓の外の景色が、少しずつ変わっていく。
ビルの高さが低くなり、マンションが一軒家に変わり、やがて家と家の間に、畑や空き地がのぞくようになった。青々とした稲が、風に吹かれて一斉に同じ方向へなびいている。遠くに見える山の稜線が、夏の空気の中で白くかすんでいた。
駅に止まるたびに、乗客が減っていく。大学生の女の子たちも、麦わら帽子の女の子も、いつの間にかいなくなっていた。気づけば、車両に残っているのは、作業着姿の男の人が二人と、居眠りをしているおばあさんと、結だけだった。
イヤホンの奥は、相変わらず静かだった。
家を出る時、母は玄関まで見送りに来なかった。台所から「気をつけてね」という声だけが聞こえた。姉はまだ寝ていた。父はもう出かけた後だった。それでいい、と思った。誰かに見送られたら、自分が何をしているのか、急に分からなくなりそうだったから。
ポケットの中で、スマートフォンが一度だけ震えた。取り出すと、母からのメッセージだった。
『お昼、ちゃんと食べなさいね』
それだけだった。結は返事を打ちかけて、やめた。何と返せばいいのか分からなかった。既読の印だけをつけて、画面を伏せる。
窓の外に、大きな道路が見えてきた。高架の上を、何台ものトラックが列をなして走っている。銀色の箱を背負った車体が、夏の日差しを照り返して、まぶしく光った。
その向こうに、灰色の四角い建物が並んでいた。
窓のない、巨大な箱のような倉庫。どれも同じような形で、同じような色をしていて、ところどころに会社の名前が大きく書かれている。地図で見た通りの景色だった。けれど実際に目にすると、それは思っていたよりずっと大きくて、ずっと無機質だった。
車内アナウンスが、結の降りる駅の名前を告げた。
結はイヤホンを外し、トートバッグを抱え直して立ち上がった。作業着の男の人たちも同じ駅で降りるらしく、無言でドアの前に並ぶ。
ドアが開いた。
熱気が、全身にぶつかってくる。アスファルトの焼けるにおいと、どこかで鳴いている蝉の声。ホームの屋根の影から一歩出ると、日差しが首筋を刺した。空はどこまでも青く、雲はどこまでも白かった。
小さな駅だった。改札は一つだけで、駅前には自動販売機とバス停と、閉まったままの古い商店があるだけ。遠くで、トラックのエンジン音が低く響いていた。
ここなら、と結は思った。
ここなら、誰も私を知らない。
誰も「玲奈の妹」とは呼ばない。誰も私を姉と比べない。黙って、言われたことをして、時間になったら帰る。それだけでいい。それだけの毎日が、きっと夏休みの終わりまで続く。
結は額の汗をぬぐって、倉庫の並ぶ方へ歩き出した。
蝉の声が、背中を押すように鳴いていた。
白瀬結、十五歳。高校一年生の、初めての夏休み。
その夏が、どんなふうに終わるのかも知らずに。




