セレーヌ様の話
セレーヌ大神官に呼ばれたのは、春も終わりに近い、穏やかな午後のことだった。
大神官の私室は、神殿棟の一番高い場所にあった。石造りの廊下を上り、重い扉を三つ抜けた先。アルテは何度か呼ばれたことがあるが、そのたびに少しだけ緊張した。叱られる心当たりがある時も、ない時も、あの扉の前では背筋が伸びた。
扉を叩くと、「どうぞ」という低い声がした。
部屋に入ると、セレーヌ大神官は窓際の椅子に座っていた。膝の上に書物を開いていたが、アルテが入ると静かに閉じた。
窓の外には聖環水路が見えた。水面に午後の光が揺れていた。この部屋からの景色は、アルテの部屋からとは角度が違った。神殿丘の高さから見下ろす街は、小さくて、美しかった。
「座りなさい」とセレーヌ大神官は言った。
アルテは勧められた椅子に腰を下ろした。
「今日は怒られますか」と聞いた。
セレーヌ大神官は少し目を細めた。笑ったのかもしれなかった。
「違います。話がしたかった」
◆ ◆ ◆
しばらく、二人でお茶を飲んだ。
セレーヌ大神官のお茶は、神殿の食堂で出るものとは違った。薬草と花を合わせた、甘くて少し苦い独特の味がした。アルテは好きだった。呼ばれた時だけ飲めるお茶だと思っていた。
「光誕祭の後から、あなたが少し変わった気がする」とセレーヌ大神官は言った。唐突だったが、アルテは驚かなかった。この人はいつもそういう言い方をした。前置きなく、本題から。
「変わりましたか」
「変わった、というより——何かを受け取り始めた、という感じです」セレーヌ大神官はお茶を一口飲んだ。「歴代聖女の記録を読んでいるそうですね」
「ロアン先生からもらいました」
「知っています。あの人がそうするだろうと思っていました」
「先生と話し合っていたんですか」
「話し合うというほどではないけれど」セレーヌ大神官は窓の外を見た。「ロアン神官はあなたのことを心配している。口には出さないけれど」
アルテは少し黙った。ロアン神官が自分を心配している、という言葉を、頭の中で何度か転がした。
「叱ってばかりなのに」とアルテは言った。
「叱ることと心配することは、矛盾しません」
確かにそうだ、とアルテは思った。
◆ ◆ ◆
セレーヌ大神官は少しの間、水面を見ていた。
それから、ゆっくりと話し始めた。
「アルテ。あなたに話しておきたいことがあります。今すぐ全部ではないけれど、少しだけ」
アルテは姿勢を正した。
「わたしが若い頃——まだ上級神官になる前のことです。一度だけ、光の精霊に会ったことがある」
アルテは目を丸くした。
「セレーヌ様が?」
「精霊使いではありません。契約もしていない。ただ——ある夜、神殿の庭に出た時、光の粒がそこにいた。近づいてきた。触れることはできなかったけれど、確かにそこにいた」
セレーヌ大神官の声は、いつもより少し静かだった。長い年月をかけて言葉にしてきた記憶の話し方だった。
「それからです。精霊について本当に知りたいと思ったのは。書物で読む知識ではなく、実際に在るものとして」
「その精霊は、どこに行ったんですか」とアルテは聞いた。
「行ってしまいました。しばらくいて、それからいなくなった」セレーヌ大神官は微かに笑った。「未練があるとしたら、もう一度会いたかったということくらいです。それだけ、あの光は美しかった」
アルテは窓の外を見た。水面の光が揺れていた。精霊たちが今日も静かにそこにいた。
「なぜ、わたしに話してくれるんですか」
「あなたが」とセレーヌ大神官は言った、「精霊に選ばれた理由がわからないと悩んでいることを、知っているから」
アルテは少し息を止めた。
「わかるんですか、そういうことが」
「七十年以上、人を見てきました」セレーヌ大神官は静かに言った。「顔に出ていますよ、アルテ。礼拝の光を浴びている時のあなたの顔と、式典で祭壇に立っている時のあなたの顔は、少し違う」
アルテは黙った。
「怖いのでしょう」
「……少し」とアルテは正直に言った。「聖女という言葉が、たまに重くて」
「当然です」とセレーヌ大神官は言った。即座に、迷いなく。「十二歳の子どもが重くないはずがない」
アルテはその言葉を聞いた瞬間、胸のどこかが緩んだ気がした。ずっと張っていた何かが、少しだけ、ほどけた。
◆ ◆ ◆
「わたしがあなたに伝えたいのは」とセレーヌ大神官は続けた、「ひとつだけです」
アルテは前を向いた。
「精霊があなたを選んだ理由は、わたしにもわかりません。でも精霊があなたのそばを離れないことは、わかる。あなたが礼拝中に考えごとをしていても、図書庫に無断で入っても、鐘楼に独りで上がっても——精霊たちはいつも、そこにいる」
「……はい」
「それは理由があって選ばれたから、ではないと、わたしは思っています。あなたが何者であるかを気に入って、一緒にいることを選んでいる。あなたが聖女だからではなく、アルテだから」
アルテは少し俯いた。目が熱くなった。泣くつもりはなかったのに、目の奥が熱かった。
「でも」とアルテは言った。「聖女として、ちゃんとできないといけない。光誕祭でうまくできなかった年もあったし、祝福祭は毎年しんどいし——」
「できないことがある」とセレーヌ大神官は言った。「それを知っていることが、誠実さです」
「誠実さだけじゃ、人を守れません」
「今はそうかもしれない」セレーヌ大神官は頷いた。「でもあなたはまだ十二歳です。十二歳がすべてできなくていい。それはわたしが保証します」
アルテは顔を上げた。セレーヌ大神官がこちらを見ていた。しわの多い顔に、穏やかな目があった。
「わたしが生きている間は」とセレーヌ大神官は言った。「あなたの後ろにいます」
アルテはしばらく何も言えなかった。
精霊たちが、静かに揺れていた。いつもより、少し暖かい光に見えた。
◆ ◆ ◆
「もうひとつだけ」とセレーヌ大神官は言った。少し間を置いてから。「聞いておいてほしいことがあります」
「はい」
「今この街は、外の世界から遠い。でも遠いままでいられる時間は、永遠ではないかもしれない」
アルテは少し止まった。
「外の世界、というのは」
「七か国のこと。戦争のこと」セレーヌ大神官は静かに言った。「あなたが成人する頃には、世界が今とは違うかもしれない。あるいはもっと早く、変化が来るかもしれない」
アルテは窓の外を見た。運河が光を揺らしていた。街の音が、かすかに聞こえた。何も変わっていない、いつもの午後の音だった。
「怖い話をしてしまったかしら」とセレーヌ大神官は言った。
「……少し」とアルテは答えた。「でも、聞いておいてよかったです」
「知ることと、備えることは違います。今日は知るだけでいい」
「備えるのはいつですか」
「あなたが聞きに来た時」セレーヌ大神官は言った。「来なければ、わたしから言います。どちらでもいい」
アルテは少し考えてから、頷いた。
「わかりました」
◆ ◆ ◆
部屋を出る前に、アルテはもう一度だけ聞いた。
「セレーヌ様。あの光の精霊、名前はわかりましたか」
セレーヌ大神官は少し目を細めた。
「名前などつけられるものではないけれど——白くて、小さくて、夜の庭でひとりで揺れていた。それだけ覚えています」
アルテは精霊たちを見た。今この部屋にいる精霊の中に、白くて小さいものがあった。いつもアルテのそばにいる精霊の中で、一番静かな子だった。
「もしかしたら」とアルテは言った。「今もここにいるかもしれません」
セレーヌ大神官はアルテを見た。それからその精霊がいる方向を、静かに見た。見えているかどうかはわからなかった。ただ、長い時間、そちらを見ていた。
「……そうですか」と、小さく言った。
声が、少しだけ違った。七十年分の何かが混じった声だった。
アルテは扉に手をかけて、振り返った。
「また来てもいいですか」
「いつでも」とセレーヌ大神官は言った。「お茶は常に用意しています」
◆ ◆ ◆
廊下に出ると、石の壁に午後の光が斜めに差し込んでいた。
アルテはしばらくそこに立っていた。頭の中がまだ、さっきの話でいっぱいだった。精霊があなたを選んだのではなく、あなたと一緒にいることを選んでいる。あなたが聖女だからではなく、アルテだから。
わかったような、わからないような。
でも、胸のどこかが軽くなっていた。重さがなくなったわけではなかった。ただ、その重さを一人で持たなくていいのだと、少しだけ思えた。
精霊たちが廊下の光の中で揺れていた。
アルテはその中を歩いた。見習い棟に戻りながら、鼻の奥がまだ少し熱かった。泣かなかったけれど、泣いてもよかったかもしれないとも思った。
今度来た時は、泣いてもいいか聞いてみようと思った。
◆ ◆ ◆
夜、アルテは歴代聖女の記録を開かなかった。
今日は本を読む気にならなかった。ただ暖炉の前に座って、炎を見ていた。
セレーヌ大神官が若い頃に会った精霊が、もしあの白くて小さな子だったなら——ずっとそこにいたことになる。七十年近く、大神官のそばに。契約もせず、使役もされず、ただそこにいた。
契約でも使役でもない関係。
図書庫で読んだ言葉が、また浮かんだ。
この世界にはそういう繋がりが、あちこちにあるのかもしれない。言葉にならない形で、目に見えない形で。でも確かに、そこにある。
炎が静かに揺れた。
「おやすみ」とアルテは言った。
いつもより少しだけ、丁寧に言った。
炎がふわりと揺れた。精霊たちの光が、少し温かくなった気がした。
水都の夜が深くなった。運河が星を映して、静かに流れていた。




