エランのこと、少し
エラン・ドゥヴァが自習室にいる時間は、見習いの中で断然長かった。
朝の礼拝が終われば自習室、昼食が終われば自習室、夕食の後も自習室。消灯の鐘が鳴る直前まで、ろうそくの灯りで書物を読んでいた。アルテには到底真似できない種類の勤勉さだった。
そのエランが、珍しく自習室にいなかった。
夕食の後、ミラがエランを見かけなかったと言って、アルテは何となく気になった。消灯まで一刻ほどある。どこにいるのだろう、と思いながら廊下を歩いていると、回廊の端の窓際にエランがいた。
ひとりで外を見ていた。
書物も持っていなかった。ただ窓の外を——運河の方を、静かに見ていた。
アルテは足を止めた。声をかけようかどうか、一瞬だけ迷った。エランは気づいていないようだった。夕暮れの光が回廊に差し込んで、エランの横顔を橙色に染めていた。
普段と違う顔だった。
いつもは前を向いて、どこかに向かっている顔をしている。今は、ただそこにいた。
アルテは結局、声をかけた。
「珍しいね、自習室にいないの」
◆ ◆ ◆
エランは振り返った。アルテを見て、少し表情が戻った。いつもの、少し緊張感のある顔に。
「……たまには外を見ます」
「そうなんだ」とアルテは言って、隣の窓枠に寄りかかった。「何か考えてた?」
「別に」
「嘘だ」
エランは少し黙った。
「なぜそう思うんですか」
「考えてない時の顔じゃなかったから」
エランはまた黙った。今度は少し長く。それから運河の方に視線を戻した。
「……手紙が来ました。家から」
アルテは黙って続きを待った。
「父親から。神殿での成績を聞かれました。優秀でいるか、と」
「優秀でいるか」とアルテは繰り返した。「いるかどうか聞く感じなんだ」
「うちはそういう家です」エランの声は平坦だった。「ドゥヴァ家は代々神殿に仕える貴族で、見習いを送り込む時は必ず結果を出すことを期待される。そういう決まりがある」
「エランはそれが嫌なの?」
エランはすぐに答えなかった。
「嫌、というわけではありません」と、少し間を置いて言った。「ただ——たまに疲れます。優秀でいることを確認されることが」
アルテは窓の外を見た。運河に夕陽が映っていた。橋の上を人が渡っていた。
「手紙、返した?」
「まだです」
「なんて書くの?」
「優秀でいると、書きます」エランは少し苦く笑った。それは初めて見る笑い方だった。「それしか書くことがない」
◆ ◆ ◆
しばらく二人で窓の外を見ていた。
運河に小舟が一艘、のんびりと流れていった。舟に乗った老人が、ゆっくりと棹を操っていた。急いでいない速さだった。
「エランって」とアルテは言った。「なんで神殿の見習いになろうと思ったの? 家の決まりだから?」
エランは少し考えた。
「最初はそうでした」と言った。「でも——神学を勉強していくうちに、面白くなった。特に、精霊と神の関係についての解釈が。光明派は精霊を神の意志の体現として捉えますが、正統派はそれを否定する。どちらの論拠にも根拠があって、でも相容れない。その矛盾が、なぜか惹きつける」
アルテは少し驚いた。エランがそんな話をするのは、初めてだった。
「わたしには難しくてよくわからない」と正直に言った。
「あなたには必要ない話かもしれません」エランは言った。「精霊と直接対話できるなら、解釈など関係ない」
「そんなことはないと思う」とアルテは言った。「わたしは精霊の気持ちはわかっても、神学はわからない。エランがわかることがある。それは違うものじゃなくて、違う場所から見てるだけじゃないかな」
エランはアルテを見た。
何かを言おうとして、言わなかった。それからまた外を向いた。
「……そういう考え方は、したことがなかった」と小さく言った。
◆ ◆ ◆
消灯の鐘が遠くで鳴り始めた。
エランが姿勢を正した。いつもの、どこかに向かっている顔に戻っていた。
「戻ります」
「うん」とアルテは言った。「手紙、返せるといいね」
エランは少し止まった。
「優秀でいると書くだけです」
「それ以外のことも書いたらどうかな」
「何を書けばいいんですか」
アルテは少し考えた。
「神学が面白くなったこと、とか」
エランはアルテを見た。しばらく黙っていた。
「……父親に、そんなことを書く習慣がない」
「習慣がないならはじめてみれば」
エランは何か言おうとした。言いかけて、やめた。それから小さく息を吐いた。
「考えます」
それだけ言って、回廊を歩いていった。足音が遠くなっていった。
アルテは窓枠に寄りかかったまま、しばらくその背中を見ていた。光精霊が一つ、エランの後ろをついていこうとして、また戻ってきた。
——エランも、疲れてるんだな。
知らなかった。いつも真っ直ぐで、正しいことを言って、隙がなくて。疲れている人には見えなかった。
見えていなかっただけで、ちゃんとあったのだ。
◆ ◆ ◆
翌日、自習室の前を通りかかった時、エランが机に向かって何かを書いていた。
祈祷書でも神学書でもなく、手紙の紙だった。
アルテは立ち止まらずに通り過ぎた。見ていないふりをした。でも少しだけ、胸のあたりが温かくなった。
昼食の時、エランはいつも通りだった。アルテが席に着くと、「昨日の講義の補足資料を読みましたか」と聞いてきた。読んでいないと答えたら「読んでください」と言われた。
いつも通りだった。
ただ、ほんの少しだけ——声の硬さが、前より柔らかかった気がした。気のせいかもしれなかった。でもアルテは気のせいじゃないと思った。
ミラが「二人、何かあった?」と小声で聞いてきた。
「別に」とアルテは答えた。
「嘘だ」とミラは言った。
アルテは笑った。さっき自分がエランに言ったのと同じ言葉だった。
◆ ◆ ◆
夜、アルテはいつもの場所で歴代聖女の記録を読んだ。
今日は三代目の章だった。この聖女は文章が少し堅くて、感情より観察を書く人だったが、ある一節だけが柔らかかった。
神殿にいると、人の外側しか見えないことがある。礼拝の姿勢が正しいか、言葉が正確かを見てしまう。しかし今日、見習いの一人が礼拝中に泣いているのを見た。理由を聞いたら「うまく言えないけど、光を見ていたら泣きたくなった」と言った。それが正しい礼拝の姿だと、わたしは思った。外側より内側に、大切なものがある。
アルテはその文を読んで、エランのことを思った。
外側は優秀で、正しくて、揺るがない。でも内側に——窓の外を見ながら疲れると言った、あの顔がある。
どちらもエランだった。
アルテは本を閉じた。精霊たちが静かに揺れていた。
「おやすみ」と言った。今夜は炉端妖精にも、精霊たちにも、それからエランにも、少し向けて言った気がした。眠れているといいな、と思いながら。
炎がふわりと揺れた。
水都の夜が、静かに深くなっていった。




