表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/34

エランのこと、少し

エラン・ドゥヴァが自習室にいる時間は、見習いの中で断然長かった。


朝の礼拝が終われば自習室、昼食が終われば自習室、夕食の後も自習室。消灯の鐘が鳴る直前まで、ろうそくの灯りで書物を読んでいた。アルテには到底真似できない種類の勤勉さだった。


そのエランが、珍しく自習室にいなかった。


夕食の後、ミラがエランを見かけなかったと言って、アルテは何となく気になった。消灯まで一刻ほどある。どこにいるのだろう、と思いながら廊下を歩いていると、回廊の端の窓際にエランがいた。


ひとりで外を見ていた。


書物も持っていなかった。ただ窓の外を——運河の方を、静かに見ていた。


アルテは足を止めた。声をかけようかどうか、一瞬だけ迷った。エランは気づいていないようだった。夕暮れの光が回廊に差し込んで、エランの横顔を橙色に染めていた。


普段と違う顔だった。


いつもは前を向いて、どこかに向かっている顔をしている。今は、ただそこにいた。


アルテは結局、声をかけた。


「珍しいね、自習室にいないの」


◆ ◆ ◆

エランは振り返った。アルテを見て、少し表情が戻った。いつもの、少し緊張感のある顔に。


「……たまには外を見ます」


「そうなんだ」とアルテは言って、隣の窓枠に寄りかかった。「何か考えてた?」


「別に」


「嘘だ」


エランは少し黙った。


「なぜそう思うんですか」


「考えてない時の顔じゃなかったから」


エランはまた黙った。今度は少し長く。それから運河の方に視線を戻した。


「……手紙が来ました。家から」


アルテは黙って続きを待った。


「父親から。神殿での成績を聞かれました。優秀でいるか、と」


「優秀でいるか」とアルテは繰り返した。「いるかどうか聞く感じなんだ」


「うちはそういう家です」エランの声は平坦だった。「ドゥヴァ家は代々神殿に仕える貴族で、見習いを送り込む時は必ず結果を出すことを期待される。そういう決まりがある」


「エランはそれが嫌なの?」


エランはすぐに答えなかった。


「嫌、というわけではありません」と、少し間を置いて言った。「ただ——たまに疲れます。優秀でいることを確認されることが」


アルテは窓の外を見た。運河に夕陽が映っていた。橋の上を人が渡っていた。


「手紙、返した?」


「まだです」


「なんて書くの?」


「優秀でいると、書きます」エランは少し苦く笑った。それは初めて見る笑い方だった。「それしか書くことがない」


◆ ◆ ◆

しばらく二人で窓の外を見ていた。


運河に小舟が一艘、のんびりと流れていった。舟に乗った老人が、ゆっくりと棹を操っていた。急いでいない速さだった。


「エランって」とアルテは言った。「なんで神殿の見習いになろうと思ったの? 家の決まりだから?」


エランは少し考えた。


「最初はそうでした」と言った。「でも——神学を勉強していくうちに、面白くなった。特に、精霊と神の関係についての解釈が。光明派は精霊を神の意志の体現として捉えますが、正統派はそれを否定する。どちらの論拠にも根拠があって、でも相容れない。その矛盾が、なぜか惹きつける」


アルテは少し驚いた。エランがそんな話をするのは、初めてだった。


「わたしには難しくてよくわからない」と正直に言った。


「あなたには必要ない話かもしれません」エランは言った。「精霊と直接対話できるなら、解釈など関係ない」


「そんなことはないと思う」とアルテは言った。「わたしは精霊の気持ちはわかっても、神学はわからない。エランがわかることがある。それは違うものじゃなくて、違う場所から見てるだけじゃないかな」


エランはアルテを見た。


何かを言おうとして、言わなかった。それからまた外を向いた。


「……そういう考え方は、したことがなかった」と小さく言った。


◆ ◆ ◆

消灯の鐘が遠くで鳴り始めた。


エランが姿勢を正した。いつもの、どこかに向かっている顔に戻っていた。


「戻ります」


「うん」とアルテは言った。「手紙、返せるといいね」


エランは少し止まった。


「優秀でいると書くだけです」


「それ以外のことも書いたらどうかな」


「何を書けばいいんですか」


アルテは少し考えた。


「神学が面白くなったこと、とか」


エランはアルテを見た。しばらく黙っていた。


「……父親に、そんなことを書く習慣がない」


「習慣がないならはじめてみれば」


エランは何か言おうとした。言いかけて、やめた。それから小さく息を吐いた。


「考えます」


それだけ言って、回廊を歩いていった。足音が遠くなっていった。


アルテは窓枠に寄りかかったまま、しばらくその背中を見ていた。光精霊が一つ、エランの後ろをついていこうとして、また戻ってきた。


——エランも、疲れてるんだな。


知らなかった。いつも真っ直ぐで、正しいことを言って、隙がなくて。疲れている人には見えなかった。


見えていなかっただけで、ちゃんとあったのだ。


◆ ◆ ◆

翌日、自習室の前を通りかかった時、エランが机に向かって何かを書いていた。


祈祷書でも神学書でもなく、手紙の紙だった。


アルテは立ち止まらずに通り過ぎた。見ていないふりをした。でも少しだけ、胸のあたりが温かくなった。


昼食の時、エランはいつも通りだった。アルテが席に着くと、「昨日の講義の補足資料を読みましたか」と聞いてきた。読んでいないと答えたら「読んでください」と言われた。


いつも通りだった。


ただ、ほんの少しだけ——声の硬さが、前より柔らかかった気がした。気のせいかもしれなかった。でもアルテは気のせいじゃないと思った。


ミラが「二人、何かあった?」と小声で聞いてきた。


「別に」とアルテは答えた。


「嘘だ」とミラは言った。


アルテは笑った。さっき自分がエランに言ったのと同じ言葉だった。


◆ ◆ ◆

夜、アルテはいつもの場所で歴代聖女の記録を読んだ。


今日は三代目の章だった。この聖女は文章が少し堅くて、感情より観察を書く人だったが、ある一節だけが柔らかかった。


神殿にいると、人の外側しか見えないことがある。礼拝の姿勢が正しいか、言葉が正確かを見てしまう。しかし今日、見習いの一人が礼拝中に泣いているのを見た。理由を聞いたら「うまく言えないけど、光を見ていたら泣きたくなった」と言った。それが正しい礼拝の姿だと、わたしは思った。外側より内側に、大切なものがある。


アルテはその文を読んで、エランのことを思った。


外側は優秀で、正しくて、揺るがない。でも内側に——窓の外を見ながら疲れると言った、あの顔がある。


どちらもエランだった。


アルテは本を閉じた。精霊たちが静かに揺れていた。


「おやすみ」と言った。今夜は炉端妖精にも、精霊たちにも、それからエランにも、少し向けて言った気がした。眠れているといいな、と思いながら。


炎がふわりと揺れた。


水都の夜が、静かに深くなっていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ