夏の大祭の前に
夏の大祭まで、十日を切った。
街の様子が変わり始めたのは、それより少し前からだった。港湾区に見慣れない船が増え、市場区に聞いたことのない言葉が飛び交い、宿屋という宿屋に「満室」の札が出た。神殿の門前にも、遠い地方から来た巡礼者が列を作るようになった。
水都アルテミアが、年で一番賑やかになる季節だった。
アルテは朝の礼拝を終えてから、いつもより少し早足で市場区に出た。ミラが「祭りの準備が見たい」とずっと言っていたし、ロアン神官から「祭り前の街の様子を観察してくること」という珍しい課題も出ていた。観察したことをまとめて報告書を書けばいいらしく、つまり公認の外出だった。
ミラが隣で言った。
「ロアン先生にしては太っ腹じゃない」
「先生なりの気遣いだと思う」とアルテは言った。
「聖女が祭り前に街を歩いて、民と触れ合うことも務めのうち、みたいな?」
「そういうことだと思う」
「なんだ、ちゃんと考えてくれてるんだ」とミラは言って、少し嬉しそうにした。「じゃあ思いきり楽しんでも、それが報告書になるね」
アルテは笑った。そういう解釈でいいのかはわからなかったが、今日くらいはそれでいいと思った。
◆ ◆ ◆
市場区は朝から活気があった。
いつもの青果市や魚市に加えて、祭り向けの屋台が通りに並び始めていた。色とりどりの布細工、香辛料、焼き菓子、花輪、小さな精霊を模った陶器の置物。外から来た商人が声を張り上げていた。言葉はゲルアラント語だったが、訛りが強かった。どこから来たのだろう、とアルテは思いながら歩いた。
橋の上は人が多くて、二人は端によって歩いた。橋の中ほどで、ミラが立ち止まった。
「あれ、何語?」
橋の向こう側で、男性が二人、大きな声で話していた。ゲルアラント語ではなかった。聞いたことのない音の並びだった。
「わからない」とアルテは言った。「北の方の言葉かな」
「通じるのかな、市場で」
「身振りで何とかなるんじゃない」
二人は橋を渡りきって、幹線運河沿いの通りに入った。こちらはさらに人が多かった。荷車が行き交い、子どもが走り、犬が吠えた。アルテは光精霊たちが、人混みの中で少し縮こまっているのに気づいた。騒がしいのが苦手らしかった。
「大丈夫?」と小声で聞くと、精霊たちは少し近づいてきた。苦手だけれどいる、という感じだった。
ミラが「誰に話しかけてるの」と言った。
「精霊に」
「ああ」とミラは言って、特に気にしない顔で歩き続けた。
◆ ◆ ◆
市場の奥の広場に、大きな荷台が止まっていた。
荷台の周りに人が集まっていて、何かを運び下ろしていた。大きな木の箱や、布に包まれた細長いもの。楽器だとアルテは気づいた。大祭の音楽隊が、どこかから来たのだろう。
その傍らに、子どもが一人、立っていた。
六つか七つくらいだった。小さくて、薄い布の服を着ていた。市場区の子どもたちとは服の色が違った。荷台の陰に寄りかかって、人の流れを見ていた。迷子というより——場所がわからなくて、動けないでいる感じだった。
アルテは足を止めた。
光精霊のひとつが、その子どもに向かって飛んでいった。
アルテはミラに「ちょっと待って」と言って、子どもに近づいた。
◆ ◆ ◆
近くで見ると、女の子だった。
目が大きくて、髪が少し赤みがかっていた。ゲルアラントの人間ではない顔立ちだった。アルテが近づくと、少し体を固くした。警戒しているのか、怖いのか。
アルテはしゃがんで、目線を合わせた。
「迷子?」とゲルアラント語で聞いた。
女の子は答えなかった。わからないのか、答えたくないのか。
アルテはもう一度、今度はゆっくり聞いた。それでも女の子は黙っていた。言葉が通じていないのかもしれなかった。
光精霊が、女の子のすぐそばで揺れていた。
アルテは言葉をやめた。代わりに、手のひらを女の子に向けて、精霊に頼んだ。怖くないよ、と伝えてほしい。言葉じゃなくていい、感じてもらえれば。
精霊が少し動いた。光が柔らかくなった。
女の子が、精霊の光を見た。目が丸くなった。手を伸ばしかけて、止めた。それからアルテを見た。
アルテは微笑んだ。
女の子が、少しだけ体の力を抜いた。
◆ ◆ ◆
ミラが来て、二人でしばらく女の子の傍にいた。
言葉は通じなかった。でも精霊が間にいると、何かが伝わる気がした。怖くない、という感覚だけは届いているようだった。女の子はだんだん、アルテから目を離さなくなった。
しばらくして、荷台の方から大人の男性が走ってきた。女の子を見て、安堵した顔になった。それからアルテたちを見て、深く頭を下げた。言葉はわからなかったが、礼を言っているのはわかった。
アルテは首を振った。何もしていない、という意味で。
男性は女の子の手を取った。女の子は連れられながら、何度もアルテを振り返った。最後に振り返った時、小さく手を振った。
アルテも手を振った。
二人が人混みに消えてから、ミラが言った。
「どこから来た子だろう」
「わからない」とアルテは言った。「でも、遠いところから来たんだと思う」
「大祭で来た商人の子?」
「かもしれない。それか——」
アルテは少し止まった。難民、という言葉が頭に浮かんだ。セレーヌ大神官から聞いた話。外の世界が、少しずつここまで来ている、という話。
でもそれを今、口にする必要はなかった。
「かもしれない、ね」とだけ言った。
◆ ◆ ◆
帰り道、二人は運河沿いのベンチに座って、買ってきた蜂蜜菓子を食べた。
外国から来た菓子だった。甘くて、少し香辛料の香りがした。ゲルアラントの菓子とは違う味だった。
「美味しい」とミラが言った。
「うん」とアルテも言った。
運河を舟が通り過ぎた。舟に積まれた荷の中に、見たことのない形の壺があった。どこの国の形だろう、とアルテは思った。
「街が変わってきてる気がする」とアルテは言った。
「大祭の前だからじゃない?」
「そうかもしれないけど、それだけじゃない気もして」アルテは運河を見た。「いつもより、遠いところから来てる人が多い。言葉の種類が多い」
ミラは少し考えた。
「悪いこと?」
「悪いことじゃない」とアルテは言った。「ただ、変わってきてるんだなって」
二人でしばらく、運河を見ていた。光精霊たちが水面の光と混ざっていた。人混みから離れて、のびのびとしていた。
「ね、アルテ」とミラが言った。
「なに」
「こうやって二人で街を歩ける時間、好きだよ」
アルテはミラを見た。ミラは運河を見ていた。照れているのか、横顔が少し赤かった。
「わたしも」とアルテは言った。「好き」
ミラがにっこりした。
精霊たちが水面の上で、少し高く跳ねた。嬉しそうに見えた。ソルテが言っていた通り、精霊はアルテが嬉しい時に明るくなる。今日は明るかった。
◆ ◆ ◆
神殿に戻ってから、アルテは報告書を書いた。
市場の変化、外国語の増加、見慣れない商品、人の流れの違い。それから——言葉の通じなかった女の子のこと。精霊が間に入ると、言葉がなくても何かが伝わったこと。
書きながら、アルテは思った。
精霊は言葉を持たない。でも何かを伝えられる。人間は言葉を持つ。でも言葉がなければ伝えられないわけではない。
今日の女の子と、最後に手を振り合った。あの瞬間は言葉がなかった。でも何かがあった。
それを何と呼ぶのかはわからなかった。ただ、あったということは確かだった。
報告書を書き終えてから、アルテはもう一枚、紙を出した。
日記ではなかった。ただ、今日思ったことを書き留めておきたかった。歴代聖女の記録のような、誰かが読むためではなく、自分が忘れないために書くものとして。
言葉が通じなくても、光があれば何かが届く。精霊はそれを知っている。わたしはまだ、それを借りているだけだけれど。いつか、借りなくてもそういうことができる人間になれるだろうか。
書いてから、少し恥ずかしくなった。でも消さなかった。
◆ ◆ ◆
夜、暖炉の前でアルテはぼんやりした。
今日一日のことが、頭の中をゆっくりと流れていった。賑やかな市場、見慣れない言葉、蜂蜜菓子の味、ミラの横顔、女の子の最後の手振り。
大祭はまだ十日ある。その間に、もっといろんな人がこの街に来る。もっといろんな言葉が聞こえてくる。もっといろんな顔が、運河沿いを歩く。
アルテは首都を出ない。出る必要もない。世界の方がここへ来る。
それが、少し嬉しかった。
炎がいつものように揺れた。
「おやすみ」とアルテは言った。
今日は女の子のことも少し思いながら言った。どこかで、眠れているといい。言葉は通じなくても、それくらいは届くかもしれない、と思いながら。
炎がふわりと揺れた。
水都の夜が深くなった。港の方から、遠く船の音がした。どこかから来た船が、今夜もこの街に着いていた。




