ロアンの手紙
手紙は、春の盛りに届いた。
北からの便は月に一度、商人の荷馬車に乗ってくる。ロアンはその便を、ずっと待っていたはずだった。けれど手紙が届いた朝、ロアンは写本室にいて、いつも通り何かを読んでいた。使いの者が封書を持ってきた時も、机の上に置かせて、すぐには開かなかった。
アルテがそれを知ったのは、昼の課業の後だった。
「手紙が届いたと聞きました」アルテは写本室の扉を押しながら言った。「北から」
ロアンは机の前に座っていた。封書は机の端に置かれたままで、まだ封が切られていなかった。
「開けていないんですか」
「開けるつもりだ」ロアンは短く言った。「——ただ」
「怖い?」
ロアンは少し間を置いた。「……かもしれない」
アルテは向かいの椅子に座った。「一緒にいてもいいですか。開ける時」
ロアンは何も言わなかった。けれど、椅子を引いて向かいに座ったアルテを、追い出そうとはしなかった。それがロアンなりの答えだと、アルテには分かっていた。
ロアンはゆっくりと封書を取り上げ、封を切った。
◆ ◆ ◆
手紙は、二枚だった。
ロアンはしばらく無言で読んだ。アルテは待った。写本室の高い窓から、春の光が斜めに差し込んでいた。
読み終えると、ロアンは手紙を机の上に置いた。そのまま少し動かなかった。
「どうでしたか」アルテは静かに尋ねた。
「……森は、残っていた」
アルテは息を呑んだ。
「開発計画は、実行から三年後に中止になったらしい」ロアンは机を見たまま、ゆっくりと言った。「理由は——精霊林の価値を改めて評価した、という公式の説明だが、実際には精霊の気配が急に濃くなって、工事の道具が何度も動かなくなったと書いてある」
「精霊が、拒んだんですね」
「そうなのかもしれない」ロアンは静かに言った。「住んでいた人々は、一度移住させられた。でも——中止になった後、戻った家族もいるらしい。全員ではないが」
しばらく沈黙があった。
「よかった」アルテは言った。「全部ではなくても」
「……ああ」ロアンの声は低く、静かだった。「全部ではなくても」
「ロアン先生の報告書が、もし正確に書かれていたとしても——同じ結果になっていたかどうか、分からない」アルテはゆっくりと言った。「でも、先生が今日それを知ったことは、よかったと思います」
ロアンは答えなかった。ただ、手紙を一度だけ、丁寧に折り畳んだ。
「もう一枚は?」アルテは尋ねた。
「家族からだ」ロアンは短く言った。「——弟から」
「弟さんがいるんですね」
「いる。机を挟んで喧嘩ばかりしていた」ロアンは珍しく、少しだけ口元を動かした。「手紙をよこすのは、十五年ぶりだ」
「何と書いてありましたか」
ロアンはしばらく黙った。それから、静かに言った。「生きているか、と。——それだけだ」
アルテは何も言わなかった。
十五年間、一言も連絡がなかった弟から届いた手紙が「生きているか」の一言。それがどれほどのことか、言葉にするよりも、黙っている方が伝わると思った。
「返事を書きますか」アルテはやがて言った。
「……書く」ロアンは言った。「生きている、と」
「それだけでいいと思います」
「それだけでいい」ロアンは繰り返した。確かめるように。
◆ ◆ ◆
その日の夕方、アルテはセレーヌに会いに行った。ロアンの手紙のことを話すためではなく、ただ顔を見たかった。
セレーヌは庭に出ていた。珍しいことだった。執務室にいることが多いセレーヌが、ただ庭に立って、春の花壇を眺めていた。
「珍しいですね、庭に」
「たまには外に出たくなるものですよ」セレーヌは振り返らずに言った。「あなたこそ、何かありましたか。顔に出ています」
「ロアン先生に、北から手紙が届きました。森が残っていたと」
セレーヌはそれを聞いて、小さく息をついた。「そうですか。——よかった」
「先生は、弟さんからの手紙に返事を書くと言っていました」
「それも、よかった」セレーヌは花壇の方に視線を戻した。「ロアンは、長い間一人でいすぎた。あの人が背負ってきたものを、全部知っているわけではないけれど——今日は少し、降りたのでしょうね」
「降りた、というより——向き合えた、という感じでした」
「そう」セレーヌは静かに言った。「それは、あなたがそばにいたからですよ」
「わたしは何もしていません。ただ、一緒にいただけ」
「だから、よかったんです」
セレーヌはそれきり、また花壇を眺めた。アルテも隣に立って、同じ方を見た。春の花が、夕陽の中で橙色に染まっていた。光芒妖精が一体、花の上をゆっくりと漂っていた。
「セレーヌ様」アルテはふと言った。「シロのこと、夢に出てきますか」
「出てきます。毎晩ではないけれど」セレーヌは穏やかに言った。「根域へ行った後から、たまに。——声ではなく、光だけのことが多い。でもそれで分かります。まだそこにいる、ということが」
「わたしもです。あの白い光が、たまに見える気がします」
「繋がっているんですね、あなたとシロは」セレーヌは静かに言った。「名前をつけた人と、名前をもらった存在は——少し特別な関係になるらしいですよ、古い記録には」
「先生の見つけた記録に、そういうことが書いてありましたか」
「もう少し古いものに。——わたしも、長く待っている間に、いろいろと読みました」セレーヌは少し笑った。その笑い方が、今はずっと柔らかかった。根域から帰ってから、セレーヌの笑い方が変わった気がする、とアルテはいつか気づいていた。何かが解けた人の笑い方に、なっていた。
夜、アルテは手記を開いた。今日は短く書いた。
「ロアン先生の北の森は、残っていた。全部ではないけれど、残っていた。先生は弟さんに返事を書くと言っていた。生きている、とだけ。
それだけでいい、とわたしは言った。先生も、それだけでいい、と繰り返した。同じ言葉を二人で確かめた。そういう瞬間が、今日はとても大事なものに思えた」
炉端妖精がいつものように現れた。今夜は珍しく、二度まわりをした。アルテはそれを見て、何かを伝えようとしているのかと思ったが、特に何も変わらなかった。ただそういう気分だったのかもしれない。
「おやすみ」アルテは囁いた。「——先生に、いい夢がありますように」
妖精はひとめぐりして、消えた。春の夜は短く、もう窓の外が少し明るみ始めていた。




