帰る街へ
帰り道は、来た道より早く感じられた。
エヴァの森を抜ける頃には、春の陽が高く上がっていた。若葉の隙間から差す光が、行きよりも明るかった。葉陰妖精たちが声なき声で纏わりつき、アルテの周りを賑やかに飛び交った。根域の奥では入ってこられなかった精霊たちが、戻ってきた一行を出迎えるように集まっていた。
「精霊が多い」カゲが珍しく、柔らかい声で言った。「お祭りみたいだ」
「喜んでるんだと思います」アルテは言った。「シロが少し目覚めたことを」
「精霊って、そういうことも分かるのか」
「全部繋がっているから」
カゲは少し黙ってから、「なるほどな」と言った。その口調に、冒険者の実務的な感慨とは別の、何か個人的なものが滲んでいた。
ルインは黙って歩いていたが、森を出る際に立ち止まり、根域の方角を振り返った。「また来ることになるな」
「はい。シロが完全に目覚めるまで」
「俺たちも、呼んでくれ」ルインはそれだけ言って、また歩き出した。アルテは、その短い言葉の重さを受け取った。S級冒険者二人が、次の訪問も請け負うと言っている。それは単なる依頼の継続ではなかった。
◆ ◆ ◆
街が見えた時、セレーヌが足を止めた。
遠く、水都の白い建物が春の光に輝いていた。神殿の尖塔が、街の上に静かに立っていた。セレーヌはその景色をしばらく眺め、それからゆっくりと歩き出した。
アルテは隣に並んだ。
「どうですか、セレーヌ様」
「不思議な気分です」セレーヌは静かに言った。「あの尖塔を、何十年も見てきた。毎朝、毎晩。でも今日は——初めて見るような気がする」
「何かが変わりましたか」
「わたしが、少し変わったのかもしれない」セレーヌは微かに笑った。「長い間、待ちながら生きてきた。待つことが、いつの間にか生き方になっていた。でも今日、シロに会って——待つのが終わったわけではないけれど、待ち方が変わった気がします」
「待ち方が、変わった」
「ただ待つのではなく、一緒に向かっている、という感じに」セレーヌは言葉を選びながら言った。「——あなたのおかげです、アルテ」
「わたしは、ただ先に来ていただけです」
「先に来て、道を作ってくれた。それは『ただ』ではない」
アルテは返す言葉を見つけられなかった。ただ、街へと続く道を、セレーヌの隣で歩いた。
◆ ◆ ◆
神殿の門には、待っている人たちがいた。
ミラが真っ先に走り寄ってきた。前回と同じように。アルテはその勢いを受け止め、ミラの背中を抱き返した。前回と同じように。
「おかえり」ミラは言った。今回は泣かなかった。それがかえって、何かを表していた。
「ただいま」
ソルテはアルテを見て、静かに頷いた。「気配、変わった」
「どんなふうに?」
「前より、遠くまで届いてる。根域の方向に、細い糸が繋がってる気がする」
「シロと繋がったから、かもしれない」
「シロ?」ソルテは首をわずかに傾けた。
「名前をつけた。白い精霊に」アルテは言った。「シロっていう」
ソルテはしばらく考えてから、「いい名前」と短く言った。それ以上の感想はなかったが、ソルテにとってはそれが最大の評価だと、アルテには分かっていた。
ベルトはアルテの手を取り、また何も言わなかった。ただ、その手のひらが温かかった。ロアンは少し離れた場所に立っていたが、アルテと目が合うと、ほんのわずかに頷いた。
ナヤはいなかった。
アルテが気づいて辺りを見渡すと、門の外、石段の一番下に小さな人影があった。正門の中には入らず、ただそこに立って、一行が戻るのを見ていた。アルテは門から出て、石段を下りた。
「来てたんだ」
「……来た」ナヤは短く言った。「約束、聞きに来た」
「シロっていう名前の、白い精霊がいた。ずっと眠っていたけど、今日少し目覚めた。セレーヌ様のことを覚えていて、光の匂いがすると言っていた」
ナヤはそれを聞きながら、根域の方角を一度だけ見た。それから、アルテを見た。
「……会えた?」
「会えた。話せた」
「よかった」ナヤはぼそりと言った。「——根守り、また呼んだ。今度は返事が少し早かった」
「本当に? それはすごい」
「別にすごくない」ナヤは言ったが、その目が、また少し動いた。
◆ ◆ ◆
翌朝、エランが旅立った。
見送りは小さかった。エラン自身が「大げさにするな」と言ったから、アルテとカトだけが城門まで来た。
エランは旅装に剣を一本帯びていた。その剣の帯び方が、ゲルアラントに来た頃とは違っていた。重さを持て余しているのではなく、ただそこにある、という自然な帯び方だった。
「師匠に、よろしく伝えて」アルテは言った。「会ったことはないけど」
「何と伝える」
「弟子が、ちゃんと生きていたって」
エランは少し黙り、それから「伝える」と言った。
カトはエランに向かって、短く言った。「行ってこい」
「ああ」
それだけだった。二人の間に、それ以上の言葉は要らなかった。エランは歩き出し、城門をくぐった。振り返らなかった。アルテは根域へ行く前夜、自分が城門を出る時に振り返らなかったことを思い出した。同じだ、と思った。
遠ざかる背中が、やがて水路の向こうに消えた。
「戻るか」カトが言った。
「うん」
二人は神殿への道を歩いた。春の朝は明るく、水路に光が揺れていた。
「カトさん」アルテはふと言った。「この街、好きですか」
カトは少し間を置いてから答えた。「——ああ」
「なりましたね。帰る場所に」
カトはまた黙った。それから、ごく短く言った。「なりつつある、と言った」
「今は?」
「……なった」
アルテは笑った。カトは笑わなかったが、その横顔が、いつもより少しだけ穏やかだった。
その夜、アルテは久しぶりに自室の暖炉の前に座った。根域の野営の焚き火とは違う、神殿の暖炉の温かさ。ここに戻ってきた、という実感がじわりと広がった。
「帰ってきた。シロに名前をつけて、セレーヌ様を届けて、帰ってきた。エランは今夜、どこかの宿にいるだろう。カトはこの街が帰る場所になったと言った。ミラは工房で明日の準備をしているかもしれない。ナヤは難民区の暗い隅で、炉端妖精と話しているかもしれない。
みんながそれぞれの場所にいて、それぞれの夜を過ごしている。それが当たり前のことのように思えて——でも、当たり前ではない。ベルトさんが言っていた。帰る場所があることは、当たり前ではない、と。
わたしは今夜、それをちゃんと分かっている」
炉端妖精がいつものように現れた。神殿の暖炉に、いつもの場所に。アルテはその小さな揺らぎを見て、旅の間も野営の火のそばまで来てくれたことを思い出した。
「ただいま」アルテは囁いた。「——ここが、一番温かい」
妖精はひとめぐりして、暖炉の奥へ消えた。春の夜風が窓の外で揺れ、水路の音が遠く聞こえた。アルテは目を閉じた。




