眠れる光のそばへ
夜明け前に出発した。
街はまだ眠っていた。水路の水面が白く霞み、石畳に朝露が光っていた。神殿の門を出る時、アルテは振り返らなかった。振り返ると、足が止まる気がした。
エヴァの森の入り口で、カゲとルインが待っていた。
「また来たな」カゲは腕を組んだまま言った。「今回は大神官様まで連れてくるとは思わなかったが」
「ご迷惑でしたか」セレーヌが静かに言った。
「迷惑じゃない」カゲはセレーヌを見て、少し表情を変えた。「——ただ、正直に言うと、大神官様がここへ来る理由が、今日まで分からなかった。でも昨夜、アルテから話を聞いて、少し分かった気がした」
「少し、でいいですよ」セレーヌは穏やかに言った。「わたし自身も、何が起きるかは分かっていないのだから」
カゲはそれを聞いて、短く笑った。「正直な人だ。好きです」
ルインは無言で頭を下げ、地図を広げた。「前回と同じ経路で光の源まで。そこから先は、アルテの感応に従う。それでいいか」
「それでいい」エランが答えた。
一行は森へ入った。
◆ ◆ ◆
前回と同じ道だったが、季節が違えば森も違った。
冬の根域行きでは黒く沈んでいた木々が、今は若葉を吹き出していた。光が葉の隙間から差し込み、地面にまだら模様を作っていた。葉陰妖精たちが新しい葉に触れながら飛び回り、前回よりもずっと賑やかだった。
「春の森は違うね」アルテはカトの隣を歩きながら言った。
「森は正直だ」カトは短く答えた。「季節を隠さない」
セレーヌは一行の中ほどを歩いていた。足取りは確かで、アルテが心配していたほど消耗していなかった。ただ、光獅の出た場所を通る時だけ、立ち止まって辺りを見渡した。
「ここで、光獅が出たんですか」
「三度」アルテは答えた。「大きな選択の前に、いつも」
「今日は、いない」
「うん。——でも、今日は選択じゃなくて、もう決めてきたから」
セレーヌは少し考えてから、ゆっくりと頷いた。「そうですね。今日は、来なくていい」
◆ ◆ ◆
黒の根域の入り口に着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
亀裂から漏れる光は、前回と変わっていなかった。淡く脈打つ輝き。けれどアルテには、その脈動が前よりわずかに安定しているように見えた。根域の光の源が、前回の訪問後に少し回復したのかもしれない。
「感じますか、セレーヌ様」アルテは隣に立つセレーヌに尋ねた。
セレーヌはしばらく、亀裂の光を見つめていた。その顔が、アルテが見たことのない表情をしていた。懐かしさと緊張と、それから——長い間待っていた人の、静かな決意。
「感じます」セレーヌは低く言った。「何十年ぶりかに、感じる」
「準備はいいですか」
「——行きましょう」
◆ ◆ ◆
地中の道は、前回来た時より明るかった。壁の光る苔が密度を増し、足元の石が春の水を含んで湿っていた。光芒妖精たちがアルテの周りに集まり、今回はセレーヌの周りにも寄ってきた。セレーヌはそれを見て、小さく息をついた。
「精霊たちは、覚えているんですね」セレーヌが囁いた。「わたしのことを」
「セレーヌ様が神殿で過ごしてきた時間を、精霊たちはずっと見ていましたから」
「そうか。——恥ずかしいですね、そんなにじっくり見られていたとは」
カゲが後ろから小声で言った。「大神官様、笑ってる。初めて見た」
「失礼ね」セレーヌは笑ったまま言った。
広い空洞に出た。光の源が、中心で静かに脈打っていた。前回より揺らぎが穏やかで、けれど今日はその奥に、もう一つの光があった。薄く、遠く、壁の向こうから滲み出るような——白い光。
アルテは息を呑んだ。夢で見た輝きと、同じだった。
「あそこです」アルテはセレーヌに向かって言った。「壁の向こう、奥に道がある」
空洞の奥を見ると、光の源の向こう側に、細い隙間があった。前回は気づかなかった——いや、前回はまだ開いていなかったのかもしれない。今は確かに、人が一人通れるほどの細い道が、さらに奥へと続いていた。
「カゲ、ルイン」エランが振り返った。「ここで待っていてもらえるか。先は——三人で行く」
カゲは頷いた。「分かった。戻るまで、ここを守る」
「カトも」エランが言うと、カトは少し間を置いてから頷いた。「……ああ。行け」
◆ ◆ ◆
細い道は、思いのほか長かった。
壁が迫り、頭を少しかがめて歩かなければならない場所もあった。道の両側から、白い光が滲み出していた。光芒妖精たちはここには入ってこなかった。入り口で止まり、見送るように揺れていた。
「精霊たちが来ない」エランが小声で言った。
「ここは、あの存在の領域だから」アルテは答えた。「普通の精霊が、気軽に入れる場所じゃない」
「怖くはないか」
「怖い。でも——」アルテは前を歩くセレーヌの背中を見た。「セレーヌ様がいる」
エランは何も言わなかった。ただ、歩く速度を緩めなかった。
やがて道が開けた。
小さな空間だった。天井が丸く、まるで卵の内側にいるようだった。壁のどこからともなく白い光が滲み出し、空間全体がやわらかく輝いていた。根域の奥でこれほど明るい場所があるとは、思わなかった。
その中心に——いた。
人の形をした、白い光の輪郭。夢で見た姿よりも、少しだけはっきりしていた。まだ揺らいでいて、完全には顕現していない。けれど、確かにそこにいた。
——来た。
声ではない。けれど、三人全員に届いたはずだった。エランが小さく息を呑む音がした。
アルテは一歩前に出ようとした。けれどセレーヌが、静かに手を上げた。
「わたしが、先に」
セレーヌはゆっくりと、白い光の輪郭へと歩み寄った。その足取りに迷いはなかった。何十年も待っていた人が、ようやくたどり着いた時の、確かな歩み。
「——久しぶり」セレーヌは静かに言った。「ずいぶん待たせてしまいましたね」
白い輪郭が、大きく揺れた。
——せれーぬ。
「そうです。年を取りましたけど」
——かわった。でも——おなじだ。
「同じ?」
——光の、においがする。むかしとおなじ。
セレーヌの肩が、わずかに震えた。アルテはそれを見て、目を逸らした。今この瞬間は、二人だけのものだった。
しばらく、何も言わずにいた。白い光とセレーヌの間で、言葉ではない何かが流れていた。アルテにはその全てが聞こえるわけではなかったが——温かさだけは、はっきりと伝わってきた。
やがてセレーヌが振り返った。
「アルテ」
「はい」
「来てください。——あなたのことを、ちゃんと知りたいと言っています」
アルテは前へ出た。白い輪郭は、アルテを見ていた。夢の中よりも、はっきりとした視線だった。
——おまえが、つれてきてくれた。
「一緒に来てくれたのは、セレーヌ様です。わたしは——ただ、先に来ていただけ」
——ちがう。おまえが、根域に触れた。おまえが、呼んでくれた。おまえがいなければ——わたしはまだ、眠ったままだった。
アルテは何も言えなかった。白い光は続けた。
——おまえには、名前をあげたい。
「名前?」
——わたしの、名前を。わたしは名前を持たない。でも——おまえがつけるなら、受け取る。
アルテは少し驚き、それからセレーヌを見た。セレーヌは静かに頷いた。アルテは白い輪郭を見つめ、しばらく考えた。
「……シロ、ではどうですか」
白い輪郭が、ふわりと揺れた。
——シロ。
「簡単すぎましたか」
——いい。シンプルなのが、いい。——シロ。
その名前を自分で繰り返す時の揺らぎ方が、嬉しそうに見えた。アルテは思わず笑った。エランが後ろで、小さく息をついた。
◆ ◆ ◆
シロはまだ、完全に目覚めてはいなかった。
顕現するには、もう少し時間がかかるという。でも今日、セレーヌの声を聞いて、アルテと言葉を交わして——眠りの最も深いところからは、抜け出してきた。それだけで十分だった。
——また、来るか。
「来ます」アルテは答えた。「何度でも」
——せれーぬも。
「この足が動く限りは」セレーヌは静かに言った。「必ず」
シロはもう一度、大きく揺れた。それから少しずつ、輪郭が薄れていった。消えるのではなく、また眠りに戻るような、穏やかな薄れ方だった。
——つぎは、もう少し、はっきり会える。
「待っています」アルテは囁いた。「シロ」
白い光は、最後にひとつだけ揺れて、壁の光の中に溶けていった。空間が少し暗くなった。でも、来た時よりは明るかった。
三人は、しばらく誰も何も言わなかった。
やがてエランが、静かに言った。「——行こうか」
その夜は根域の入り口近くで野営した。焚き火を囲みながら、全員がしばらく黙っていた。カゲでさえ、今夜は口数が少なかった。
セレーヌは焚き火を見つめていた。その横顔は、これまでアルテが見たどの表情とも違った。長い重荷を降ろした人の顔——ではなく、重荷を降ろした後に、また別の何かを静かに持ち上げようとしている人の顔だった。
アルテは手記を開いた。今夜は書くべきことが多すぎて、どれから書けばいいか分からなかった。それでも、一番最初に来た言葉を書いた。
「シロ、という名前をつけた。簡単すぎるかと思ったが、シロはそれでいいと言ってくれた。シンプルなのがいい、と。
名前をつけることは、その存在を知ろうとすることだとソルテが言っていた。今日、わたしはシロに名前をあげた。でも、もしかしたら——シロはずっと前から、名前を持っていたのかもしれない。ただ、呼んでくれる人がいなかっただけで
炉端妖精は今夜、野営の焚き火の傍らに現れた。神殿の暖炉ではなく、地の上の火のそばに。アルテはそれを見て、少し驚き、それから微笑んだ。
「ここまで来てくれたんだ」
妖精はひとめぐりして、焚き火の中に溶けるように消えた。炎が少しだけ大きくなった気がした。
「おやすみ」アルテは囁いた。「——帰ったら、みんなに話す。シロのこと」




