春の前夜
春が来た、と最初に気づいたのはソルテだった。
「土が動いた」とある朝、朝食の席でぽつりと言った。「根守りたちが、起き始めてる」
窓の外はまだ肌寒く、花壇の花も蕾のままだったが、ソルテがそう言うなら、確かに春は来ていた。その翌日には薬草園の枯れ株からうっすらと緑が芽吹き始め、二日後には水路沿いの柳が淡い緑を滲ませた。
出発は、柳が芽吹いてから五日後と決まった。
◆ ◆ ◆
前夜、神殿の食堂に全員が集まった。
正式な送り出しではなく、セレーヌが「夕食を一緒に」と言い出したことで、自然にそうなった。アルテ、エラン、カト、セレーヌ、ロアン、ミラ、ソルテ、ベルト。それから——ナヤも来た。エダ老婆と一緒に、難民区から歩いてきた。
食堂の長机に、これだけの人が並ぶのは珍しかった。ベルトが「こんな賑やかな飯は久しぶりじゃ」と言い、ミラが「ベルトさんはいつも神殿で食べてるじゃないですか」と突っ込んだ。エダ老婆がそれを聞いてくすくすと笑った。ナヤは末席に座り、料理を静かに食べながら、時折テーブルの上を漂う光芒妖精を目で追っていた。
セレーヌはいつものように背筋を伸ばして座っていたが、今夜は大神官というよりも、長年この場所にいる一人の人間として見えた。ロアンは向かいの席で、珍しく写本を持ってきていなかった。ただ、そこにいた。
食事が進むにつれ、話はあちこちへ飛んだ。ベルトが若い頃に迷い込んだ森の話をした。カトが珍しく、冒険者になりたての頃の失敗談を語った。エランは黙って聞いていたが、カトの話に「それはひどい」と短く言って、珍しく笑った。ミラは師匠イレネが昨日教えてくれた薬草の話をした。ソルテはナヤに、今日薬草園で見つけた春の最初の虫のことを小声で伝えていた。
アルテはその全部を、少し離れたところから見ていた。いや、見ていたというより——感じていた。精霊の気配を受け取るときと似た感覚で、この場にある温かさを、肌で受け取っていた。
「アルテ」セレーヌが静かに声をかけた。「遠くを見てますよ」
「ごめんなさい。——覚えておきたくて」
セレーヌは何も言わず、ただ小さく頷いた。
◆ ◆ ◆
食事の後、庭に出た。春の夜気は冬よりも柔らかく、それでもまだ冷たかった。光芒妖精が尖塔のまわりをゆっくりと旋回していた。
エランがアルテの隣に来た。
「明後日、俺も北へ発つ」エランは言った。「根域から戻ったのを確認してから、発とうと思っていた」
「待っていてくれたんだ」
「当然だろう」エランは短く言った。それからしばらく黙り、空を見上げた。「——帰ってこい」
その言葉は、出発前の決まり文句ではなかった。セレーヌが最初の根域行きの前に言った「必ず帰ってきなさい」と、同じ種類の重さを持っていた。アルテは頷いた。
「帰る。——エランも」
「ああ」
「師匠のところから戻ったら、教えて。どうだったか」
エランは少し間を置いてから、「教える」と言った。約束のような、宣言のような言い方で。
◆ ◆ ◆
カトはベルトと話していた。二人が並んでいる光景はこれまであまりなかったが、今夜は自然にそうなっていた。アルテが近づくと、カトがちらりと振り返った。
「明日の荷の確認は済んでいるか」
「さっき終わりました」
「食料は三日分。水は多めに。——前回と同じルートでいいが、光の源の奥となれば、時間がどのくらいかかるか分からない」
「カゲさんとルインさんには、もう話してある」
「ならいい」カトはそれきり、またベルトの方を向いた。アルテはその横顔を見て、これがカトの送り出し方なのだと思った。言葉ではなく、準備で示す。それはカトらしかった。
ベルトがアルテに顔を向けた。
「根域の奥か。——お前さんは、そういうとこへ行く人間なんやな」
「そういうとこへ、という意味は?」
「誰も行ったことのない場所へ、でも怖がらずに、ではなくて——怖がりながらも行く、ということや」ベルトは皺だらけの顔をほころばせた。「わしの村の人間にも、そういう人がおった。村が沈む前に、水の底に何があるか見に行った人が」
「どうなったんですか」
「帰ってきた。何にもなかった、泥だけやった、と笑って言うた」ベルトは小さく笑った。「でも、わしらはその人が帰ってきたことが、何よりも嬉しかった。見てきたものよりも」
アルテはその話を、静かに胸に収めた。
◆ ◆ ◆
ナヤは庭の端に一人でいた。空を見上げていた。アルテが近づくと、ナヤは降ろしていた視線をアルテに向けた。
「明日、行くんでしょ」
「うん。朝早く」
「あっちの気配が、今夜は大きい」ナヤは北東の方角を向いた。「さっきから、こっちを向いてる気がする。ずっと」
「そうかもしれない。向こうで、誰かが待っているから」
ナヤはしばらく、その方角を見ていた。それから、いつものぶっきらぼうな口調で言った。
「約束、覚えてる? 帰ってきたら、何がいたか教えるって」
「覚えてる。必ず教える」
「……あと」ナヤは少し間を置いた。「帰ってきてから、根守りの呼び方、もっと教えてほしい。この前より上手に呼べた気がするから」
「うん、教える」アルテは笑った。「ナヤが上手になってるの、ソルテも気づいてるよ」
ナヤは「別に」と言ったが、その頬が少し動いた。
◆ ◆ ◆
最後に、ロアンと少し話した。他の人が部屋に戻り始めた頃、ロアンだけが回廊の柱に寄りかかって残っていた。
「先生も、見送りに残ってくれたんですか」
「偶然だ」ロアンは素っ気なく言った。「星を見ていた」
「星、好きなんですか」
「北にいた頃、よく見ていた。南へ来ると、星の並びが少し変わる。それが、最初は落ち着かなかった」
「今は?」
「慣れた」ロアンは短く言った。「——慣れると、こちらの星の方が好きになった」
アルテはその言葉の意味を、星以上のこととして受け取った。黙っていると、ロアンが続けた。
「根域の奥のことは、分からない。だが——セレーヌ様が一緒なら、何かが変わるとわたしも思う」
「ロアン先生も、そう思いますか」
「あの方は、長い間待っていた。待つ間も、ちゃんと生きていた。——それは、相当のことだ」
アルテは夜空を見上げた。南の星が、静かに瞬いていた。
自室に戻り、アルテは旅装の荷を確認した。歴代聖女の記録、手記と予備のペン、ソルテからもらった乾燥花——今回も懐に入れる。全部揃っていた。荷を整えてから、暖炉の前に座った。
炉端妖精がいつものように現れた。今夜の妖精は、アルテの膝の近くで、いつもより長くとどまっていた。
「明日、行く。今夜はそれだけを書く。
食堂で皆と過ごした時間を、ずっと覚えていたいと思った。ベルトさんが言っていた——見てきたものよりも、帰ってきたことが嬉しかった、と。わたしも、帰ってくる。それがまず、一番大事なことだ」
アルテは手記を閉じ、炉端妖精に囁いた。
「おやすみ。——行ってきます」
妖精は今夜だけ、いつもより長くそこにいた。それからゆっくりと、暖炉の奥へ消えた。
春の夜気が窓の隙間から入ってきて、アルテは目を閉じた。




