白い夢の記憶
その夜、アルテは夢を見た。
夢の中は白かった。根域の奥のような暗さではなく、雲の中にいるような、どこまでも柔らかい白さだった。足元に地面はなく、かといって落ちる感覚もない。ただ、白い中に立っていた。
——来た。
声ではなかった。根域で聞いたあの感触に似ていたが、もっと静かで、もっと近かった。
「誰?」アルテは夢の中で尋ねた。
——知っている。おまえのことを。ずっと、見ていた。
白い靄の中に、輪郭が現れた。人の形をしていたが、はっきりとは見えない。ただ、白く光っていた。根域の光の源よりも、もっと凝縮された、意志を持つ光。
アルテは息を呑んだ。これは——。
——せれーぬ、を知っているか。
「知っています。わたしの、大切な人です」
——そうか。よかった。あの子は、ちゃんと大切にされているのか。
「あの子、というのは——セレーヌ様のことを?」
——わたしが最後に会ったとき、あの子はまだ若かった。光の道に入ったばかりで、迷っていた。
「セレーヌ様は今、大神官です。ずっとこの街の神殿を守ってきました」
白い輪郭が、ゆっくりと揺れた。安堵のような揺れ方だった。
——そうか。それは、よかった。
「あなたは——白光の精体、ですか」
——そう呼ぶ者もいる。わたし自身は、名前を持たない。
「目を覚ましているんですか。今」
——少しだけ。おまえが根域に触れてから、少しだけ目が覚めた。まだ完全ではない。でも——声が届くくらいには。
アルテは白い靄の中で、その輪郭をまっすぐに見た。
「セレーヌ様に会いたいですか」
長い沈黙があった。白さが少しだけ揺らいだ。
——会いたい。でも——まだ、そこまでの力がない。おまえが来てくれれば、少し早くなるかもしれない。
「根域へ、また行けばいいんですか」
——奥へ。もっと奥へ。光の源のさらに先に、わたしはいる。一人では難しい。でも——おまえには、つながりがある。
「つながり?」
——精霊たちと。光の道と。そして——せれーぬと。
その言葉を最後に、白い輪郭はゆっくりと薄れていった。白さだけが残り、やがてそれも溶けていった。アルテは暗闇の中で目を覚ました。
◆ ◆ ◆
夜明け前だった。暖炉の火は落ちかけていて、部屋が静かに冷えていた。アルテはしばらく天井を見つめ、夢の内容を反芻した。夢は大抵、目が覚めると薄れていく。けれど今夜の夢は、声の感触まで鮮明に残っていた。
炉端妖精が、いつもより早い時間にそっと現れた。まだ暖炉の火が残っている。妖精はアルテの傍らで静かに揺れていた。
「あなたたちには、分かる?」アルテは小さく囁いた。「今夜、誰かが来ていたこと」
妖精はひとめぐりして、それから少し大きく揺れた。いつもと違う揺れ方だった。
「分かるんだね」
アルテは起き上がり、手記を取り出した。夢が薄れないうちに書き留めておきたかった。
(夢の記録・明け方)
白い空間。人の形をした白い光の存在。根域の光の源よりも意志が明確で、言葉に近いものを持っていた。セレーヌ様のことを「あの子」と呼んでいた。最後に会った時、セレーヌ様はまだ若く、光の道に入ったばかりだったという。
「根域のさらに奥にいる」「おまえが根域に触れてから少し目が覚めた」「もっと奥へ来れば早くなるかもしれない」という言葉。そして「おまえにはつながりがある——精霊たちと、光の道と、セレーヌと」。
これは夢か、それとも本当の接触だったのか、まだ分からない。でも、炉端妖精は何かを感じていた。
書き終えてから、アルテはセレーヌに話すべきかどうか、少し考えた。考えて——話すべきだと、すぐに分かった。セレーヌは何十年も待ってきた。その人に黙っているのは、正しくなかった。
◆ ◆ ◆
朝の課業が終わってすぐ、アルテはセレーヌの執務室を訪ねた。
「今朝、夢を見ました」アルテは座るなり言った。「——白い光の存在が、来ました」
セレーヌの手が、書きかけの書簡の上で止まった。
「話してください」
アルテは手記を見ながら、夢の内容を順番に話した。白い空間のこと、輪郭だけの光の存在のこと、セレーヌを「あの子」と呼んでいたこと、根域のさらに奥にいるということ。セレーヌは最後まで、一言も挟まなかった。
話し終えると、執務室に静寂が落ちた。
しばらくして、セレーヌが口を開いた。声は、いつもより低かった。
「——あの子は」セレーヌはゆっくりと言った。「わたしのことを、あの子と呼んでいたんですか」
「はい」
セレーヌは目を伏せた。その目元が、かすかに動いた。感情を抑えているような、それでも抑えきれないような、長い年月を持つ人の表情だった。
「最後に会ったのは、わたしが十七歳の時でした。あの存在にとって、わたしはずっと——十七歳のままだったんですね」
「そうかもしれません」
「今のわたしを見たら、驚くでしょうね」セレーヌは微かに笑った。老いた人の笑い方だったが、その笑みの奥に、十七歳の頃の何かが滲んでいた。「ずいぶん、年を取ってしまった」
「それだけ、待ってくれていたということだと思います」アルテは静かに言った。
セレーヌは少し黙り、それからアルテを見た。
「根域へ、もう一度行くつもりですか」
「行きたいと思っています。——セレーヌ様も、一緒に来てほしい。あの存在は、セレーヌ様との繋がりを知っていました。セレーヌ様の声が届けば、もっと早く目覚められるかもしれない」
セレーヌはしばらく、窓の外の尖塔を見ていた。冬の光が白く、尖塔の先端に当たっていた。
「——行きます」セレーヌはゆっくりと言った。「この歳で根域へ行くのは、正気の沙汰ではないかもしれないけれど」
「カゲさんとルインさんに、また頼みます」
「心強い」セレーヌは小さく息をついた。「春になったら——エランが旅立つ前に、行きましょう。あの人にも、いてほしい」
「エランも、そう言うと思います」
二人は少しの間、黙って尖塔を見ていた。光芒妖精が一体、尖塔のそばをゆっくりと漂っていた。
「アルテ」セレーヌがやがて言った。
「はい」
「夢の中で——あの存在は、何か他に言っていましたか。あなた自身のことを」
アルテは少し考えた。「おまえには繋がりがある、と言っていました。精霊たちと、光の道と、セレーヌと。——それだけです」
「繋がり」セレーヌは繰り返した。「それは——あなたが時間をかけて、自分で作ってきたものですよ」
アルテはその言葉を、すぐには返せなかった。自分で作ってきた。その言葉の重さを、胸の中でゆっくりと受け取った。
その夜、アルテは暖炉の前に長く座っていた。手記は膝の上にあったが、今夜は書かなかった。ただ、炎を見ていた。
炉端妖精が現れ、いつものようにそばに落ち着いた。今夜の妖精は動かず、ただアルテと一緒に炎を見ていた。二人(あるいは一人と一匹)で、冬の夜の暖炉を見ている。それだけのことが、今夜はひどく落ち着いた。
春になったら根域へ行く。セレーヌと一緒に、もっと奥へ。白い光の存在のもとへ。
怖くないかといえば、嘘になる。でも——怖いことと、すべきことは、別の話だ。セレーヌがそれを教えてくれた。ロアンが、カトが、エランが、それぞれの形で示してくれた。
「おやすみ」アルテはやがて囁いた。「——春まで、よろしくね」
妖精はひとめぐりして、静かに消えた。




