ロアン先生の本棚
光誕祭から五日が過ぎた。
神殿の暮らしは元の律儀なリズムに戻っていた。朝の礼拝、午前の講義、昼食、午後の作業か自習、夕食、就寝。変わらない毎日の繰り返しが、アルテは嫌いではなかった。変わらないことは、安心に似ていた。
今日の午前の講義は、精霊史の続きだった。
ロアン神官が黒板に精霊の分類図を書きながら話している。アルテはそれをきちんと写し取りながら、ひとつ気になっていることを温めていた。
タイミングを見計らって、手を挙げた。
「質問してもいいですか」
ロアン神官は黒板から振り返った。
「どうぞ」
「光精霊が人間に懐く場合、その人間は光の精霊使いになる可能性がありますか。それとも、懐くことと契約は別の話ですか」
教室が少し静かになった。ミラがちらりとアルテを見た。エランが筆を止めた。
ロアン神官は少し間を置いた。黒板の前に立ったまま、アルテを見た。
「なぜそれを聞くのですか」
「光誕祭の日に、精霊が懐いた人を見かけたので」
「あなた以外の人間に」
「はい」
ロアン神官はもう一度間を置いた。それから椅子を引いて座った。講義の途中で座るのは珍しかった。
「いい質問です」と言った。
アルテはわずかに驚いた。ロアン神官に「いい質問」と言われたのは、記憶の限りで初めてだった。
◆ ◆ ◆
ロアン神官の説明は、丁寧だった。
精霊が人間に近づく理由はいくつかある。単純な好奇心、その人間の放つ何らかの気配への反応、あるいは——精霊使いになりうる資質の感知。ただしそのどれであるかを外から判断するのは難しく、精霊自身にしかわからない場合も多い。
懐くことと契約は別の話だが、無関係でもない。精霊が近づき、その距離が縮まり、やがて「共にいることを選ぶ」という段階を経て初めて契約になる。急かすものでも、強制できるものでもない。
「その人物に精霊使いの資質があるかどうかは」とロアン神官は言った、「精霊が決めることです。人間側にできることは、邪魔をしないことだけ」
「邪魔とは」
「精霊を怖がること、無視すること、あるいは——利用しようとすること」
アルテは頷いた。フレンツは精霊を怖がっていなかった。無視もしていなかった。「何かいる気はする」と言って、静かに受け止めていた。
邪魔はしていない、と思った。
「先生」とアルテはもう一度言った。「その人物が精霊使いになるかどうかは別として、精霊に懐かれやすい人間というのは、何が違うんでしょうか」
ロアン神官は少し考えた。
「在り方、です」と言った。「図書庫の精霊感応の記録に書いてあったでしょう」
「読みました」
「ならわかるはずです」
アルテはしばらく考えた。
フレンツは、飾らない人だった。褒める時に飾らず、答える時に迷わず、自分が「わからない」ことをわからないと言った。あの「なぜ自分がその場所にいるのかわからないまま立っている」という言葉が、まだどこかに残っていた。
在り方が、誠実なのだと思った。
◆ ◆ ◆
昼食の後、アルテは図書庫に向かった。今日は無断ではない。ロアン神官から「精霊感応の記録の続きを読んでおくように」と指示が出ていた。
重い扉を開けると、いつもの薄暗さと匂いが出迎えた。光精霊たちが少し落ち着いた光になった。
前回の続きの巻を棚から抜き出して、机に広げる。
読み始めてすぐに、面白い記述が出てきた。百五十年ほど前に書かれた神官の日誌で、精霊使いではない人間が光精霊に懐かれた事例が記録されていた。その人物は結局、精霊使いにはならなかった。しかし精霊とは長い年月をかけて「友人のような関係」になったと書かれていた。
彼は精霊の力を借りようとしなかった。ただ、精霊がそこにいることを知っていた。それだけで十分だったようである。精霊もまた、彼のそばにいることを選び続けた。契約でも使役でもない関係が、この世界に存在しうることを、わたしは今になって理解した気がする。
アルテはその文字をしばらく見つめた。
契約でも使役でもない関係。
ただ、そこにいる。それだけの関係。
フレンツと光精霊の間に生まれているかもしれないものが、少しだけ言葉になった気がした。
◆ ◆ ◆
読み終えて顔を上げると、図書庫の扉が開いた。
ロアン神官だった。
アルテは思わず背筋を伸ばした。今日は許可を得て来ているので、叱られる理由はない。わかっていても、反射的に姿勢がよくなった。
ロアン神官はアルテを一瞥してから、奥の棚に向かった。何かを探しているようだった。背表紙を指でなぞりながら、棚を見ていく。
アルテは報告書を書きながら、横目で見ていた。
ロアン神官は一冊を抜き出して、少しだけページをめくった。それからアルテの机に来て、無言でその本を置いた。
「読みなさい」とだけ言った。
アルテは表紙を見た。古い羊皮紙の装丁に、かすれた文字で題名が書かれていた。
『光の使者と人の世——光精霊使いの記録、全三巻のうち第一巻』
「これは」とアルテは言った。
「歴代の光精霊使いの記録を集めたものです」とロアン神官は言った。「あなたの先輩たちの話が載っている」
「……ステンドグラスの人たちですか」
ロアン神官は少し止まった。
「側廊の窓のことを言っているなら、そうです」
アルテは本を手に取った。表紙がざらりとしていた。何十年も、あるいは何百年も、誰かの手に触れてきた感触だった。
「先生」とアルテは言った。「これ、前から図書庫にありましたか」
「あります」
「なぜ今まで教えてくれなかったんですか」
ロアン神官は短く答えた。
「あなたが自分で気づくのを待っていました」
「……何に気づくのを」
「先輩たちのことを、知りたいと思うまで」
アルテは本を見た。ロアン神官を見た。この人はいつもこうだ、と思った。教えるべき時に教え、待つべき時に待つ。その判断が、アルテには時々わからない。でも今日は——なんとなく、わかった気がした。
「ありがとうございます」とアルテは言った。
ロアン神官は何も言わなかった。ただ頷いて、図書庫を出ていった。
◆ ◆ ◆
アルテはその日の残りの時間を、図書庫で過ごした。
『光の使者と人の世』の最初のページを開くと、巻頭に短い一文があった。
光を持つ者は、光を持たない者より多くを見る。しかし見えすぎることもまた、その者の重荷となる。これはそのような者たちの、正直な記録である。
アルテはその一文を、三度読んだ。
重荷。
知っている言葉だと思った。自分の中にずっとある感覚に、初めて名前がついた気がした。
外が暗くなりかけた頃、ミラが迎えに来た。
「夕食の鐘、もうすぐ鳴るよ」
「ごめん、気づかなかった」
「何読んでたの?」
アルテは本の表紙を見せた。ミラは読んで、ふうんと言った。
「先輩たちの話?」
「うん。先生がくれた」
「ロアン先生が?」ミラが目を丸くした。「自分からくれたの?」
「自分から」
ミラはしばらく驚いた顔をしていた。それから「なんか、認められた感じじゃない」とにっこりした。
アルテは本を抱えて立ち上がった。認められた、かどうかはわからなかった。ただ、この本を渡してくれるまで待っていてくれた人がいたことは、確かだった。
図書庫の扉を閉めると、廊下に夕暮れの光が差し込んでいた。精霊たちが光の中で揺れていた。
◆ ◆ ◆
夜、アルテは布団の中で本の続きを読んだ。
初代の光精霊使いの記録は、予想していたより素直な文章だった。偉大な聖女の語録ではなく、ひとりの人間が日々感じたことを、正直に書き留めたものだった。
精霊に選ばれた理由がわからないと書いてあった。
光を使うたびに体が疲れると書いてあった。
祭りの前は眠れないと書いてあった。
アルテは読みながら、何度か小さく笑った。
知っている、と思った。全部、知っている感覚だった。百年以上前に死んだ誰かが書いた言葉が、今夜のアルテの気持ちと重なっていた。
ページをめくっていくと、こんな一節があった。
今日、子どもに「なぜ光が出るの」と聞かれた。うまく答えられなかった。精霊が貸してくれるから、と言ったら、その子は「精霊はなんで貸してくれるの」と聞いた。わからない、と言ったら、その子は「じゃあ聞いてみればいいじゃない」と言った。子どもは正しいと思った。今夜、聞いてみようと思う。
アルテは本を胸に置いて、天井を見た。
精霊たちが部屋の中で静かに揺れていた。
「なんでわたしを選んだの」と、もう一度聞いてみた。
精霊たちは答えなかった。ただ、少しだけ近づいてきた。
それでいい、と今夜は思った。答えがなくても、そこにいてくれる。それだけで今夜は眠れる気がした。
アルテは本を閉じて、暖炉の方を向いた。
「おやすみ」と言った。
炎がふわりと揺れた。
水都の夜が深くなっていった。運河が星を映して、静かに流れていた。




