茶色の上着の人
光誕祭の翌日は、神殿中が片付けに追われる。
装飾を外し、祭壇の布を畳み、大食堂のテーブルを並べ直す。見習いたちも総出で動いた。アルテは午前中いっぱい、側廊の石床に膝をついて、昨日の式典で落ちた蝋の跡を削っていた。
昨日の疲れが、朝起きた時にはすでに消えていた。体が軽い。精霊たちも機嫌がいいのか、部屋の中でいつもよりよく動き回っていた。
ミラが隣で同じ作業をしながら、ぽつりと言った。
「昨日の灯籠、きれいだったね」
「うん」とアルテは答えた。
「アルテが流した灯籠、一番遠くまで行ってた」
「そんなことないよ」
「見てたんだから間違いない」とミラは言って、蝋の跡を丁寧に削った。「精霊が押してくれてたのかも」
アルテは少し笑った。そうかもしれない、と思った。
作業の合間に、ふと昨日の光景が頭に浮かんだ。橋の向こうで灯籠を眺めていた茶色の上着の人物。光精霊が離れなかった、あの誰か。
今日もまだ街にいるだろうか。
◆ ◆ ◆
午後、片付けが一段落してロアン神官から自由時間が出た。
ミラは「昼寝する」と言って見習い棟に引き上げた。エランは自習室に向かった。ソルテはいつの間にかいなくなっていた。いつものことだった。
アルテは一人で神殿の外に出た。
神殿丘の石段を下りて、聖環水路沿いの石畳を歩く。光誕祭の翌日の街は、少し静かだった。昨日の賑わいが嘘のように、運河はゆったりと流れていた。花売りの屋台が通りに一軒だけ残っていて、昨日売り切れなかった白い小花を並べていた。
あてもなく歩いていると、石橋のたもとのベンチに人が座っているのが見えた。
茶色の上着だった。
アルテは足を止めた。昨日と同じ人物だと、すぐにわかった。上着の色と、あの静かな座り方。水路を眺めて、ぼんやりしていた。
光精霊のひとつが、するりとアルテの傍を離れて、その人物に向かって飛んでいった。
三度目だった。
アルテは少し迷ってから、石畳を踏んで近づいた。
◆ ◆ ◆
近くで見ると、若い男性だった。
二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。整った顔立ちだが、飾り気がなかった。髪は短く切り揃えられていて、服装は質素だった。指に指輪のひとつもなく、腰に剣もない。ただ、姿勢がよかった。意識しているわけではなく、自然にそうなっている種類の姿勢だった。
男性はアルテが近づいてきたのに気づいて、顔を上げた。
目が合った。
穏やかな目だった。驚いた様子もなく、警戒した様子もなく、ただ静かにこちらを見ていた。
アルテは足を止めて、率直に言った。
「その光、見えますか」
男性は一瞬だけ目を細めた。それから光精霊を見た。光精霊はちょうど男性の肩のあたりで、小さく揺れていた。
「見える、というより——何かいる気はします」と男性は言った。「光の粒のような。あなたには見えるのですか」
「見えます」とアルテは答えた。「光精霊です。昨日からあなたに懐いてる」
男性は少し意外そうな顔をした。それから、ゆっくりと笑った。
「懐く、というのですか。精霊が人間に」
「珍しいことです」とアルテは言った。「精霊は滅多に知らない人間に近づかない。昨日の灯籠の時も、一昨日の丘の下でも、あなたのそばにいた」
男性はまた精霊の方を見た。今度はもう少し長く見ていた。
「一昨日も見ていたのですか」
「鐘楼から」
「なるほど」と男性は言った。咎めるでもなく、ただ納得したように。「あなたは神殿の方ですか」
「見習いです」
「見習い」男性は頷いた。「昨日の式典にいましたか」
「いました」
アルテは少し考えてから、付け加えた。
「祭壇の隣に立っていた方です」
男性の表情が、わずかに変わった。何かに気づいたような、しかしすぐにそれを収めたような、ほんの一瞬の変化だった。
「……ああ」と男性は言った。「では、あの光を放ったのは」
「わたしと、精霊たちです」
男性はしばらく黙っていた。水路を見た。精霊がまだそこにいた。
「美しかった」と、静かに言った。
飾りのない言葉だった。褒めようとして言っているのではなく、ただそう思ったから言った、という種類の言葉だった。
アルテは少し照れた。
「精霊たちが応えてくれたので」
「精霊たちが応えるかどうかは、あなた次第なのでしょう」
アルテは答えに詰まった。そうとも言えるし、そうでないとも言える。精霊の選ぶ理由は風が吹く理由に似ている——でもそれを今初めて会った人に説明するのは難しかった。
「……わかりません」とアルテは正直に言った。「なぜ精霊がわたしを選んでいるのか、今もよくわからないので」
男性はそれを聞いて、また静かに笑った。今度は少し違う笑い方だった。どこか、自分のことを重ねているような。
「それは、わたしも似たようなものです」
「何がですか」
「なぜ自分がその場所にいるのか、よくわからないまま、とりあえずそこに立っている」
アルテは首を傾けた。何の話かよくわからなかった。男性は特に説明しようとせず、水路に視線を戻した。
精霊が、男性と自分の間で揺れていた。
◆ ◆ ◆
少しの間、二人で並んで水路を見ていた。
沈黙は、不思議と気まずくなかった。運河を舟が一艘通り過ぎて、水面に波紋が広がった。花売りの屋台から、白い花の甘い匂いが漂ってきた。
アルテはふと思い出して、聞いた。
「どこから来たんですか」
男性は少し間を置いた。
「この街の、少し北の方です」
「王宮の方ですか」
「……まあ、そのあたり」
歯切れが悪かった。アルテは特に気にしなかった。この街には神殿関係者以外にも、いろんな場所に住んでいる人がいる。北の方というのは貴族街に近いが、この質素な装いでは貴族には見えなかった。
「光誕祭を見に来たんですか」とアルテは聞いた。
「そうです」と男性は言った。今度は迷いなく。「毎年来たかったのですが、なかなか時間が取れなくて。今年は——少し無理をして来ました」
「来てよかったですか」
男性はアルテを見た。
「よかったです」と言った。「来てよかった」
またあの、飾りのない言い方だった。アルテは今度は照れなかった。ただ、素直に嬉しかった。
「また来年も来てください」とアルテは言った。「毎年やってるので」
男性は少し目を細めた。
「そうします」
◆ ◆ ◆
それからしばらくして、男性は立ち上がった。
「そろそろ戻らないと」と言いながら、上着の埃を払った。「引き止めてしまいましたか」
「いいえ、わたしが声をかけたので」
「そうでしたね」と男性は言って、アルテを見た。「名前を聞いてもいいですか」
「アルテです」とアルテは答えた。「アルテミア、ですが、みんなアルテと呼ぶので」
男性の表情が、一瞬だけ止まった。
何かに気づいたような——昨日、祭壇の隣に立っていたと言った時と、似た変化だった。でも今回はもう少し長く、その表情が続いた。
「アルテミア」と、男性は繰り返した。静かな声で。
「はい」
「この街と、同じ名ですね」
「よく言われます」とアルテは少し苦笑いした。「重いので、アルテでいいです」
男性はもう一度、何か考えるような顔をした。それから、穏やかに笑った。
「フレンツです」と男性は言った。「名乗り遅れました」
「フレンツさん」とアルテは繰り返した。「またいつか」
「またいつか」と男性——フレンツは言った。
石畳を歩いて、橋を渡って、人の流れの中に消えていった。
光精霊が、その背中をしばらく追いかけてから、ふわりとアルテの元に戻ってきた。
アルテは運河を見た。水面が春の午後の光を受けて、穏やかに輝いていた。
——いい人だった。
それだけ思った。それ以上でも、それ以下でもなかった。
◆ ◆ ◆
神殿に戻ると、ミラが見習い棟の前で待っていた。
「どこ行ってたの」
「散歩」
「何かあった? なんか顔が違う」
「そんなことない」とアルテは言った。「フレンツさんっていう人と話した」
「誰?」
「昨日から精霊が懐いてた人。茶色の上着の」
ミラは少し考えてから「ふうん」と言った。「どんな人?」
アルテは少し考えた。
「光誕祭、美しかったって言ってくれた。飾りなく」
「それはよかったじゃない」
「うん」とアルテは言った。「いい人だった」
ミラが「また会えるといいね」と言った。アルテは「また来年来てくれるって言ってた」と答えた。
二人で見習い棟に入った。廊下に夕方の光が差し込んでいた。精霊たちが光の中で揺れていた。
アルテはその時、フレンツという名前が、ゲルアラント王の名前と同じだということを、まだ知らなかった。




