光誕祭
光誕祭の朝は、いつもより早く始まる。
夜明け前にアルテは目が覚めた。眠れなかったわけではない。ただ、目が覚めた。体が覚えているのかもしれない。毎年この朝だけは、鐘が鳴る前に目が開く。
窓の外はまだ暗かった。水面に映る星が揺れていた。光精霊たちはいつもより静かで、部屋の隅でじっとしていた。まるで今日という日を、息を詰めて待っているようだった。
アルテは起き上がり、白衣に着替えた。
聖女の礼装は、普段の見習い服とは違う。薄い絹の白衣に、金の刺繍が裾と袖口に入っている。帯も白で、神殿の紋章——光の輪を描いた金の留め具で留める。着るたびに少しだけ、自分が別の誰かになる気がした。
鏡に映った自分を見て、アルテは小さく息を吐いた。
「行こう」と、精霊たちに言った。
◆ ◆ ◆
夜明け前の本堂は、誰もいなかった。
当然だった。光誕祭の式典は日が昇りきってから始まる。それまでの時間、聖女だけが本堂に入ることを許されていた。アルテ一人のための、一時間。
石畳の上を歩くたびに、足音が高い天井に吸い込まれていった。
東の大薔薇窓は、まだ暗かった。夜の青さの中で、薔薇色と金のガラスが鈍く光っている。もうじき、あそこに光が差し込んでくる。毎年そうだった。毎年、その瞬間を待つ。
アルテは祭壇の前に立ち、膝をついた。
聖泉の水音が聞こえた。神殿の奥から、絶えず湧き続ける水の音。伝説では、光の女神アルテミアがここに降り立ち、初めて地上に光をもたらした。その泉の水が今も流れている。
目を閉じると、精霊たちの気配が濃くなった。
普段より多い。見知らぬ精霊もいる気がした。光誕祭には、普段この神殿にいない精霊たちも集まってくるとセレーヌ大神官が言っていた。光の祭りだから、と。
アルテは静かに、精霊たちに話しかけた。言葉ではなく、感覚で。
——今日、力を貸してほしい。うまくできるかどうかわからないけれど。
精霊たちは答えなかった。ただ、少しだけ近づいてきた。
それで十分だった。
◆ ◆ ◆
夜が明けた。
東の空が白み、やがて橙色に染まっていくのを、アルテは祭壇の前で感じた。光が来る。大薔薇窓に向かって、ゆっくりと目を開ける。
最初は細い光の筋だった。
それが広がって、薔薇色に変わった。金が混じった。窓一面に光が満ちて、本堂の白大理石の床が薔薇色と金に染まった。アルテの白衣も、同じ色に包まれた。
息が止まりそうだった。
毎年見ているのに、毎年同じように、美しかった。
光精霊たちが一斉に動いた。薔薇窓の光に引き寄せられるように、次々と集まってきた。いつもの精霊たちだけでなく、今日だけ訪れた精霊たちも。本堂が光で満ちていった。目には見えない光が、アルテには見えた。
この瞬間だけは、聖女であることが怖くなかった。
◆ ◆ ◆
式典は刻通りに始まった。
本堂の扉が開かれ、市民が流れ込んでくる。光誕祭の日、大聖堂は誰にでも開かれる。神官でも冒険者でも難民でも、この街にいる者なら誰でも。毎年それが、アルテは好きだった。
石椅子が埋まり、立ち見の人が後ろに並んだ。子どもを抱いた母親、白髪の老人、市場の商人、港湾区の漁師。みんなが前を向いていた。
ロアン神官の詠唱が始まり、神官たちが続いた。
アルテは祭壇の隣に立ち、まっすぐ前を向いた。
セレーヌ大神官がそっと隣に来て、耳元で言った。
「焦らなくていい。精霊たちを信じなさい」
アルテは小さく頷いた。
詠唱が高まっていく。光が窓から差し込んで、本堂全体が満ちていく。精霊たちの気配が濃くなる。アルテは目を閉じた。
去年のことを考えないようにした。エランの言葉も、考えないようにした。
ただ、精霊たちに向かって、もう一度話しかけた。
——お願いします。
精霊たちが応えた。
それはいつもと違う感覚だった。力が流れ込んでくるというより、精霊たちがアルテの中に一瞬だけ溶け込んできた、というような。境界が薄くなる感覚。光と自分の区別がわからなくなる、一瞬。
アルテは両手を前に広げた。
光が溢れた。
◆ ◆ ◆
後で人に聞いた話では、あの光は本堂だけでなく、窓の外まで届いたらしい。
運河の水面に光が映り、石橋の上にいた人々が空を見上げた。市場区の屋台の前で立ち話をしていた老人たちが口を閉じた。港湾区で網を繕っていた漁師が手を止めた。
アルテには何も見えなかった。目を開けていたのに、光が強すぎて何も見えなかった。ただ、暖かかった。精霊たちが一緒にいることは感じられた。
どのくらいの時間だったかわからない。
光が収まった時、アルテは立っていた。足が少し震えていた。体の中が空っぽになったような感覚があった。
本堂が静かだった。
百人以上の人間がいるのに、誰も声を出していなかった。子どもも泣いていなかった。みんながただ、前を向いていた。
最初に声を上げたのは、一番後ろにいた老人だった。
「……ありがとう」
それだけだった。でもその一言が、何かの蓋を開けたように、あちこちから同じ声が続いた。
アルテは俯いた。顔が熱かった。泣きそうだった。なぜかはわからなかった。うれしいのか、こわいのか、それとも別の何かなのか。
セレーヌ大神官がそっと肩に手を置いた。何も言わなかった。ただ、手のひらの重さが温かかった。
◆ ◆ ◆
式典の後、アルテは人の流れに従って本堂の外に出た。
神殿丘の石段を市民たちが下っていく。光誕祭の午後は、街が一日中お祭りになる。運河に光灯籠を流す準備が始まっていて、橋の上にはすでに人が集まっていた。
石段の中ほどで、ミラが待っていた。
アルテの顔を見るなり、目を赤くした。
「今年すごかった」とミラは言った。声が少し震えていた。「本当にすごかった。光が、こっちまで来た気がした」
アルテは何と言えばいいかわからなかった。
「……精霊たちのおかげだよ」
「そうかもしれないけど」ミラは目を拭った。「でも、アルテじゃないとだめだったと思う」
アルテはそれを聞いて、また顔が熱くなった。
石段のひとつ上から、声がした。
「思ったより、悪くなかった」
エランだった。腕を組んで、少し横を向いて、ぶっきらぼうに言った。目が合うと、さっと前を向いた。
「去年より、ずっとよかった」
それだけ言って、さっさと石段を下りていった。
ミラが「あれ褒めてるよね」と囁いた。アルテは「……うん」と言った。
なんだかおかしくなってきて、二人でこっそり笑った。
◆ ◆ ◆
夕方、運河に光灯籠が流れ始めた。
小さな紙の舟に蜜蝋の灯りを乗せたものが、幹線運河をゆっくりと流れていく。橋の上から人々が見守り、子どもたちが歓声を上げた。灯籠が増えるにつれて、水面全体が光に満ちていった。
アルテはミラと並んで、橋の欄干から見ていた。
光精霊たちが灯籠の光に混じって流れていた。どれが精霊でどれが炎かわからないくらい、たくさんの光が水の上を漂っていた。
橋の反対側に、見覚えのある後ろ姿があった。
昨日、鐘楼の窓から見た人物だった。あの茶色の上着の。人混みの中でひとり、運河の光灯籠を眺めていた。周囲の賑やかさとは少しだけ距離を置いて、ただ静かに、水面を見ていた。
光精霊のひとつが、またその人物に近づいていった。
今度は離れなかった。その人物のすぐ傍で、小さく光り続けた。
アルテは首を傾けた。精霊が人間に懐くのは珍しい。本当に懐く時は、こうして離れない。
——誰だろう。
声をかけようかと思った瞬間、ミラが「灯籠流そう!」と腕を引っ張った。アルテは引きずられながら振り返ったが、人混みが動いて、もうその後ろ姿は見えなくなっていた。
精霊だけが、まだどこかにいる気がした。
◆ ◆ ◆
夜、部屋に戻ったアルテはしばらく天井を見ていた。
体は疲れていた。朝から白衣を着て、式典をやって、午後は市民と話して、夕方は灯籠を流した。全部で何時間動き回ったかわからない。
でも不思議と、心は軽かった。
去年よりうまくできた。精霊たちが応えてくれた。ミラが泣いていた。エランが褒めた。老人が「ありがとう」と言った。
それから——精霊が懐いた、見知らぬ誰か。
アルテは目を閉じた。精霊が人間を選ぶ時、そこには何か理由がある。風が吹く理由を言葉にできなくても、風が吹いていることは確かだ。
暖炉の炎が、静かに揺れていた。
アルテは起き上がって、炉端に座った。
「おやすみ」と言った。
炎がふわりと揺れた。
光精霊たちも、少しずつ静かになっていった。水都の夜が深くなり、運河の灯籠の光だけが、まだ街を漂っていた。




