光誕祭の前夜
光誕祭まで、あと三日。
神殿の中がいつもと違う空気になるのは、この時期の毎年の光景だった。上級神官たちの足早な往来が増え、修道士たちは朝から大聖堂の装飾を磨き上げ、見習いたちには普段の倍の作業が割り当てられる。
アルテの今日の仕事は、本堂の側廊に並ぶステンドグラスの下枠を磨くことだった。
長い棒の先に布を巻きつけ、一枚一枚丁寧に拭いていく。窓の外は春の光で満ちていて、磨くたびにガラスの色が鮮やかになっていった。薔薇色、深青、翠緑、金。精霊教の四季の物語を描いた連作窓は、春の光の中で生き生きと輝いていた。
その一枚に、アルテは手を止めた。
歴代聖女の生涯を描いた窓だった。白衣の女性が光の中に立ち、両手から溢れる輝きが人々を包んでいる。その表情は穏やかで、迷いがなく、遠くを見ていた。
アルテはしばらく、その絵を見つめた。
——自分も、いつかああなるのだろうか。
なれる気がしなかった。
◆ ◆ ◆
昼過ぎ、中庭でミラと二人で昼食を取っていると、エランが通りかかった。
エラン・ドゥヴァは、いつも背筋が伸びている。神官服の着方も、祈祷書の持ち方も、廊下の歩き方も、すべてが教科書通りだった。アルテには到底真似できない種類の人間だと思っている。
エランはちらりとこちらを見て、足を止めた。
「光誕祭の祝福、今年もやるんですか」
アルテに向かって言っていた。「あなた」でも「聖女様」でもなく、いきなり本題から入るのがエランのやり方だった。
「やるよ」とアルテは答えた。「毎年やってる」
「去年は光が弱かった」
言い方が刃のように真っ直ぐだった。アルテは少し黙った。
「……わかってる」
「今年はちゃんとやってください。民が見てる」
それだけ言って、エランは行ってしまった。ミラが眉を寄せてその背中を見送った。
「なんなの、あの人」
「……正しいことを言ってる」とアルテは言った。
ミラが黙ってアルテの顔を見た。アルテはパンをちぎって、口に入れた。味がよくわからなかった。
◆ ◆ ◆
夕方、アルテは一人で鐘楼に上がった。
鐘楼の最上階への扉は、厳密には見習いの立入禁止区域ではない。ただ誰も用事がないから誰も来ない、というだけで。アルテはそこが好きだった。
急な石段を上りきると、四方に小さな窓が開いていた。夕暮れの風が吹き込んで、アルテの髪を揺らした。
眼下に首都アルテミアが広がっていた。
運河が街を縦横に走り、石橋が各地区を繋いでいる。赤茶色の屋根瓦が夕陽を受けて、街全体がぼんやりと橙色に染まっていた。聖環水路には最後の舟が滑り込んでいて、市場区からは夕食の支度の匂いがここまで漂ってきそうだった。
アルテは窓枠に腕を乗せて、街を見た。
光精霊たちが傍らに集まってきた。鐘楼に来ると、いつもより多く集まる気がする。夕暮れの光の中で、金色と橙色が混ざり合って、精霊たちの輪郭がいつもより柔らかく見えた。
「去年の光誕祭、弱かったかな」
独り言のように言うと、精霊たちは何も答えなかった。ただ少しだけ、近寄ってきた。
アルテは目を閉じた。
光誕祭で放つ「祝福の光」は、精霊たちに頼んで力を借りる。精霊たちが応じてくれれば光は溢れ、そうでなければ弱くなる。去年はうまくいかなかった。なぜかはわからなかった。精霊たちとの間に何かが足りなかったのか、自分の「在り方」が足りなかったのか。
図書庫で読んだ言葉が、また頭に浮かんだ。
精霊が選ぶ理由を人間の言葉で説明しようとすることは、風が何故そこを吹くかを問うことに似ている。
風は、理由があって吹くのだろうか。
それとも、ただ吹くのだろうか。
目を開けると、夕陽が運河に長い光の道を作っていた。精霊たちがその中に溶け込んで、水面の光と区別がつかなくなっていた。
アルテはしばらく、それを見ていた。
◆ ◆ ◆
鐘楼から下りる途中、中段の踊り場でアルテは足を止めた。
小さな明かり取りの窓から、神殿丘の裾が見える。聖環水路の石畳を、誰かが歩いていた。神官服ではない。質素な茶色の上着に、何の飾りもない装いだった。ただ歩き方が、どこか慣れない様子で——観光客にしては落ち着きがあり、冒険者にしては荷物がなさすぎた。
ふと、その人物が足を止めて顔を上げた。
丘の上の大聖堂を見上げているのだった。夕陽を受けた双塔の尖塔を、静かに、長い時間、見上げていた。
アルテには表情まではわからなかった。ただなぜか——その人物が「こちらを見ている」のと同じくらいの集中で、あの神殿を見ているのだと感じた。
光精霊のひとつが、その方向にふわりと飛んでいった。
アルテは首を傾けた。精霊が見知らぬ人間に近づくことは珍しかった。
しかし次の瞬間、下から「アルテ! 夕食!」というミラの声が響いてきて、アルテは我に返った。慌てて石段を下り始める。振り返って窓を見た時には、石畳に人影はなかった。
◆ ◆ ◆
夕食は大食堂で、神官・修道士・見習い全員が揃って取る。
長い石のテーブルに、スープと黒パンと焼き野菜が並ぶ。光誕祭の三日前からは、食事に少しだけ贅沢が加わる。今夜は蜂蜜が添えられていた。
アルテは隣のミラに耳打ちした。
「さっき、丘の下に変な人がいた」
「変な?」
「変じゃないけど、神官でも冒険者でもない感じの。神殿を見上げてた」
「光誕祭の前だから、巡礼者じゃない?」とミラは言った。「この時期、他の地方からも来るじゃない」
「巡礼者にしては荷物がなかった」
「荷物を宿に置いてきたのかもしれない」
そう言われればそうかもしれない、とアルテは思った。ただ光精霊があの人物に近づいたことが、少し引っかかっていた。精霊は滅多に見知らぬ人間に近づかない。
考えていると、テーブルの向こうからエランの声がした。
「聖女様。明日の祭りの準備、見習いは本堂の装飾の最終確認を担当することになっています。時間を間違えないように」
アルテは顔を上げた。
「わかってる」
「去年は五分遅刻した」
「……覚えてるの、そんなこと」
「覚えています」とエランは言って、スープを飲んだ。
ミラがこっそり「こわい」と囁いた。アルテは苦笑した。
◆ ◆ ◆
夜。
アルテは床に就く前に、もう一度だけ窓を開けた。
夜の運河は昼間と違う顔をしている。神殿の塔に灯る明かりが水面に映り、揺れている。光精霊たちがそこに混じっていた。水面の光と精霊の光が溶け合って、どちらがどちらかわからなくなっていた。
明後日、光誕祭の朝、大薔薇窓から差し込む光の中でアルテは「祝福の光」を放つ。それが聖女の仕事だった。うまくできるかどうかは、今夜の時点でまだわからない。
わかっていることはひとつ。
精霊たちが、今ここにいる。
それだけだった。それだけで、今夜は十分だと思った。
アルテは窓を閉めて、暖炉の前に座った。炎がいつものように、少しだけ形を変えて揺れた。
「おやすみ」と言った。
炎がふわりと揺れた。
光精霊たちも、静かになっていった。
水都アルテミアの夜は深くなり、街の音がひとつずつ消えていった。運河だけが、眠らずにいた。




