水都の朝
水都アルテミアの朝は、鐘の音から始まる。
光の大神殿の双塔から三つの鐘が順番に鳴り、その音は運河を伝って街のすみずみまで届く。石橋の上の花売りが店を開き、魚市場に漁師の声が響き、子どもたちが水路沿いを駆け抜ける。
神殿の見習い棟の小さな部屋で、アルテミア——通称アルテは、窓の外を見ながら欠伸をした。
窓の下に聖環水路が見える。水面に朝の光が砕けて、金色の欠片が揺れている。光精霊たちがそれに混じって踊っているのは、アルテにしか見えない。
「おはよう」と彼女は言った。精霊たちへでも、街へでも、自分へでもなく——ただ、この朝に向かって。
◆ ◆ ◆
朝の礼拝は第二の鐘から半刻後、日が完全に昇りきった頃に始まる。
アルテが本堂に入ると、すでに神官たちが所定の位置に並んでいた。白衣の裾を揃え、祈祷書を開き、視線を祭壇に向けている。見習いの席は一番後ろの左側で、アルテはそっと端の石椅子に腰を下ろした。
隣にすでに座っていたミラが、肘でアルテをつついた。
「また滑り込みじゃないの」
「間に合ってるから滑り込みじゃない」
「髪、寝癖ついてる」
アルテは慌てて手を当てたが、ミラはすでに前を向いて知らん顔をしていた。小さく笑う声だけが聞こえた。
礼拝が始まる。
ロアン上級神官の低い声が詠唱を刻み、神官たちがそれに続く。石造りの天井が音を包んで反響させ、本堂全体が祈りで満たされていく。アルテは祈祷書を開いたまま、ふと顔を上げた。
東の大窓から、朝の光が差し込んでいた。
橙と金のステンドグラスを通り抜けた光が、白大理石の床に溶けて広がる。光精霊たちがその中に集まってきていた。揺れて、跳ねて、まるで光の粒そのものになって踊っている。普段は静かな精霊たちも、朝の礼拝の光の中では少しだけはしゃいで見えた。
アルテは口元をほころばせた。
祈祷書の文字が頭に入っていないことは、ロアン神官には言わない方がいいだろうと思いながら。
◆ ◆ ◆
礼拝の後は朝食、それから午前中の講義が二コマ。神学と精霊史。
精霊史はアルテの得意な科目だったが、神学はそうではなかった。正確には、ロアン神官の話す内容はわかるのだが、どうしても途中で考えごとが始まってしまうのだ。
本日の考えごとの内容は、「光精霊は礼拝の光が好きなのか、それとも朝の光ならなんでもいいのか」というものだった。今度聞いてみようと思って石板に書き留めたところで、ロアン神官の声が頭上から降ってきた。
「アルテミア聖女。造物主教の五宗派のうち、精霊の存在を肯定する宗派はどこですか」
アルテは石板を伏せ、背筋を伸ばした。
「光明派です。神が世界に配した存在として精霊を認めています。秘儀派も儀式の中で精霊の概念を使いますが、これは……厳密には精霊教的な解釈とは異なります」
ロアン神官はひとつ頷いた。褒めはしないが、否定もしない。それがこの人の流儀だとアルテは知っていた。
「石板に書いているものを見せなさい」
静寂。
「……光精霊は朝の光が好きなのか、という考察です」
隣のミラが肩を震わせているのが気配でわかった。エランが「呆れた」という顔で天井を見上げているのも。
ロアン神官は長い沈黙の後、短く言った。
「放課後、図書庫で精霊感応の記録を二十ページ読んでくること。報告書を書きなさい」
「……はい」
アルテは素直に頭を下げた。内心、図書庫に行ける理由ができたと思いながら。
◆ ◆ ◆
午後の自由時間、アルテはミラと連れ立って回廊に出た。
中庭には薬草が植わっていて、今の季節は青い小花が一面に咲いている。石造りのアーチが連なる回廊を歩くと、外の運河の音が聞こえた。舟の水音、橋の上で誰かが歌っている声、遠くから魚売りの呼び込み。
「ねえアルテ」とミラが言った。「今日の夕方、市場に行かない? 収穫祭まであと十日だから、もう焼き栗が出てると思う」
「ロアン先生の報告書がある」
「図書庫に行くんでしょ。ならついでに早めに終わらせて、夕方だけ」
アルテは少し考えた。神殿の規則では、見習いが単独で市場区に出るには上級神官の許可が必要だ。ただしミラと二人なら「許可を申請しやすい」という実績があった。これまで七回申請して、六回は通っている。
「七対一で行けてる」とアルテは言った。
「そうそう。確率でいえばほぼ確実」
「でも先週図書庫に無断で入ったのがロアン先生にばれてるから、今日は許可が出ないかもしれない」
「……何回目?」
「今回で二回目。先生は『三回目はどうなるか覚えているか』って言ってた」
「覚えてるの?」
「覚えてない」
ミラは深いため息をついた。それからすぐに笑った。
「じゃあ今日の報告書をちゃんと書いて、ロアン先生の機嫌を取り戻してから聞いてみよう。わたしも一緒に頼む」
「ミラは悪いことしてないのに」
「友達のためです」
アルテは少しだけ照れた。精霊たちが、くすぐったそうに光った。
◆ ◆ ◆
図書庫は神殿棟の一番奥にある。
重い木の扉を押すと、古い紙と薫香の混ざった独特の匂いが出迎える。高い天井まで届く棚に、羊皮紙の書物がびっしりと並んでいた。窓は小さく、薄暗い空間に蜜蝋の燭台が等間隔で置かれている。
アルテはここが好きだった。
理由を言葉にするのは難しいが、強いて言えば「精霊たちも静かになる場所」だからかもしれない。外ではいつもはしゃいでいる光精霊たちが、図書庫に入るとそっと落ち着いた光になる。古い知識の重さに、彼らも敬意を払うのだろうか。
精霊感応の記録は棚の三列目にあった。アルテは指定された巻を抜き出し、机に広げる。羊皮紙に几帳面な筆跡で記された観察日誌——何百年も前の神官が、精霊との交流を一つひとつ書き留めたものだ。
読み始めて、すぐに引き込まれた。
二十ページ読む予定が、気づけば四十ページになっていた。ある記述に目が止まる。
光精霊は、その人間の「在り方」を見ている。才能でも血筋でもなく、ただ、その人間が何を愛し、何に誠実であるかを。精霊が選ぶ理由を人間の言葉で説明しようとすることは、風が何故そこを吹くかを問うことに似ている。
アルテはしばらく、その文字を見つめた。
自分がなぜ光精霊たちに選ばれたのか、考えたことが何度もある。特別な才能があるとは思えない。礼拝の言葉を途中で忘れることはあるし、講義中に考えごとをする。神学は苦手で、図書庫に無断で入る。ロアン先生に叱られる回数は見習いの中でおそらく一番多い。
それでも精霊たちは、今もそこにいる。石机の上で、燭台の光に溶けて、静かに揺れている。
「……なんで、わたしを選んだの」
声に出したのは無意識だった。精霊たちは答えない。ただ少し、光が近づいた気がした。
暖かかった。
◆ ◆ ◆
夕方、ミラの交渉の甲斐あってロアン神官から外出許可が出た。
二人は並んで石橋を渡り、市場区へ向かった。日が傾いて、運河の水面が橙色に染まっている。橋の欄干に腰かけた老人が釣り糸を垂らし、花売りの少女が最後の一束を抱えて帰り支度をしていた。
市場はまだ賑やかだった。石畳の上に木の台が並び、果物・香辛料・籠細工・乾物が所狭しと広げられている。いろんな声が交差して、いろんな匂いが混ざって、アルテはいつも市場に来るたびに、何か大切なものを吸い込んでいる気がした。
「あった!」
ミラが駆け寄ったのは、路地の角で炭火を熾している老婆の屋台だった。鉄の鍋の上に栗が並んでいて、焦げた甘い匂いが漂っている。
二人で一袋買って、石段に腰かけて食べた。
「熱い」とアルテは言った。
「熱いのが美味しいんじゃない」とミラは言った。
水路の向こうで誰かが笑い声を上げた。舟が一艘、静かに通り過ぎた。夕暮れの光が建物の白壁に当たって、街全体がやわらかい金色になっていた。
アルテは栗を持ったまま、ぼんやりとその景色を見ていた。
「ミラ」
「なに」
「わたし、ここが好きだな」
ミラは少し驚いたように目を丸くして、それからにっこり笑った。
「知ってる」
精霊たちが夕暮れの中でゆらゆらと揺れていた。光の中に溶けて、夕陽の色と混ざって、橙と金の間で静かに踊っていた。
◆ ◆ ◆
夜。
自室に戻ったアルテは、机に報告書を広げたまま、暖炉の前に座り込んでいた。
神殿の暖炉には炉端妖精が棲んでいる。アルテにはそれがわかる。炎の形がほんの少し不思議な動きをすることがあり、誰かがそこにいる気配がする。見えるわけではないが、感じる。
炎がゆらりと揺れた。
「今日もいるの?」
答えはない。ただ炎が少しだけ、形を変えた。
アルテは膝を抱えて、しばらくそのまま火を見ていた。図書庫で読んだ言葉が頭の中で繰り返されていた。精霊が選ぶ理由を人間の言葉で説明しようとすることは、風が何故そこを吹くかを問うことに似ている。
聖女とは、何だろう。
神殿では「神に愛されし者」と教えられる。精霊教では「光の祝福を受けた者」と言われる。歴代の聖女の記録を読むと、みんな遠くて立派で、自分とはまるで違う人間のように見える。
自分は、聖女らしくない。それは知っている。
でも——と、アルテは思う。
でも精霊たちは、ここにいる。
光精霊たちは今も部屋の中で静かに揺れていて、炉端妖精は炎の中でこちらを見ていて、窓の外には運河があって、街がある。大好きな街が。
アルテはゆっくりと息を吸った。
「おやすみ」
暖炉の炎に向かって、静かに言った。
炎がふわりと揺れた。まるで「おやすみ」と返すように。
アルテは立ち上がり、机の前に座って報告書の続きを書いた。窓の外で運河が光を揺らし、街は夜の中へ静かに沈んでいった。
水都アルテミアの夜は、いつもこんなふうに終わる。
光の中で始まり、光の中で眠る。精霊たちと一緒に。




