冬のはじまり
冬の足音は、水路から来た。
朝、窓を開けると、運河の水面が白く霞んでいた。霧ではなく、冷気が水と触れて生まれる薄い靄だった。ゲルアラントに雪は降らないが、それでも冬は来る。空の色が変わり、花壇の花が枯れ、街の人々が厚い外套を引っ張り出す。そういう冬が、今年もやってきていた。
アルテは窓枠に肘をついて、霧の向こうの神殿区を眺めた。尖塔の先端に、光芒妖精がひとつ、じっととまっていた。寒くなると、精霊たちは動きが静かになる。祭りの夜の賑わいが嘘のように、今は街全体が、ゆっくりと内側に向かって沈んでいくようだった。
「アルテ、朝食が冷める」
ミラの声が廊下から聞こえた。今日はまだ神殿にいる日で、薬師工房への通いは明後日からだという。紹介状を持って挨拶に行った日、師匠になる薬師のことを「怖そうだったけど、目が優しかった」と言って帰ってきた。それがミラらしいと思った。
「今行く」アルテは窓を閉めた。靄の中の尖塔が、すりガラス越しのように白くぼやけた。
◆ ◆ ◆
朝食の後、ロアンが写本室に来るよう言伝を寄越した。
祭りの夜に「冬になったら話す」と言っていた。あれからまだ日が浅いが、ロアンが自分から呼び出すのは珍しかった。アルテは少し急いで廊下を歩き、写本室の重い扉を押した。
ロアンはいつもの閲覧机に座っていたが、今日は写本を広げていなかった。ただ、両手を机の上に置いて、窓の外を見ていた。その横顔が、いつもより少し遠いところにある気がした。
「座れ」
アルテは向かいの椅子に座った。しばらく、二人とも何も言わなかった。写本室の高い窓から、冬の白い光が斜めに差し込んでいた。
「北の話をする」ロアンはやがて言った。前置きなく、ただそれだけ言った。
「はい」
「長い話ではない。ただ——聞いた後で、何も言わなくていい。そういう話だ」
アルテは頷いた。
ロアンは窓の外を見たまま、静かに話し始めた。
◆ ◆ ◆
北の連合国には、精霊を管理する機関がある。
国家が精霊使いを登録し、その能力を公的に運用する仕組みで、ゲルアラントのような神殿による自治とは根本的に異なる考え方だった。ロアンはその機関に属する貴族の家に生まれた。精霊の気配を感じる能力があることは、幼い頃から家族に知られていた。
「能力があるということは、資産だった。家の名を高める道具だった」ロアンは淡々と言った。感情を込めない言い方だったが、だからこそ、その言葉の重さが伝わった。「わたしはそれを、長い間当然のことだと思っていた」
転機は、ある依頼だった。機関から命じられた仕事で、精霊の棲む森を調査し、そこに住む人々を移住させるための報告書を書くことになった。移住の理由は開発だった。精霊林を切り開き、北の連合国が新しい街を作るための、ただの土地だという扱いだった。
「その森に、精霊と共に暮らしていた人々がいた。ベルトの村ほどではないが——長く、その土地に根を張っていた人々だった」
アルテは何も言わずに聞いていた。
「わたしは報告書を書いた。正確に、詳細に。移住は可能であり、精霊への影響は軽微であると。——それは、嘘だった」
「嘘、というのは」
「精霊への影響が軽微ではないことは、現地で分かっていた。その森の精霊たちは、土地と深く結びついていた。切り開けば、精霊は消える。わたしにはそれが見えていた。でも、わたしは書かなかった」
冬の光が、ロアンの横顔に斜めに落ちていた。
「報告書が受理され、開発が始まった。その後どうなったかは——自分で確かめに行かなかった。行けなかった。それから半年後、わたしは機関を辞め、家を出た」
「それがゲルアラントへ来た理由ですか」
「直接の理由は、セレーヌ様からの連絡だ。だが——どこへ行こうとしていたかは決めていなかった。ただ、北にいることができなかった」
ロアンはそこで一度、口を閉じた。アルテは言葉を探したが、ロアンが「何も言わなくていい」と言ったことを思い出して、黙っていた。
しばらくして、ロアンが続けた。
「お前に話したのは——お前が、根域で似たことをしたからだ」
「似たこと?」
「見えていることを、ちゃんと伝えた。精霊が道を見失っていることを、誰かに告げる前に、まず自分が受け取った。わたしができなかったことを、お前はした」
アルテは少し俯いた。自分がしたことが、そんなふうに見えているとは思っていなかった。
「先生」アルテはゆっくりと言った。「その森の精霊たちが、今どうなっているか——知りたいと思いますか」
ロアンはしばらく黙った。
「……知りたい、と思うようになったのは、最近のことだ」静かに言った。「長い間、知りたくなかった。知れば、自分がしたことの結果と向き合わなければならないから」
「でも今は」
「今は——向き合えるかもしれない、と思っている」
その言葉は、ロアンにしては珍しく、迷いを含んでいた。アルテはその迷いを、静かに受け取った。
◆ ◆ ◆
写本室を出ると、廊下の窓から中庭が見えた。ソルテが薬草園の枯れ始めた株を丁寧に片付けていた。冬の薬草の世話は、夏よりずっと手がかかるとソルテはよく言う。根が生きているかどうか、土の気配で確かめながら、残すものと切るものを決めていく。
アルテはしばらくその作業を眺めてから、外に出た。
「ソルテ」
「アルテ。写本室にいた」
「うん。ロアン先生と話してた」
ソルテは土のついた手を膝で拭いながら、ちらりとアルテを見た。「ロアン先生、今日は気配が違う」
「違う?」
「重いけど、前より、とがってない。——何か、出したのかな、と思った」
アルテは空を見上げた。冬の空は高く、薄い水色で、雲がゆっくりと流れていた。
「うん。出したんだと思う」
ソルテは頷いて、また株の根元に手を戻した。しばらく二人とも黙って、ソルテは土を、アルテは空を見ていた。
「ナヤ、明日来る?」ソルテがふと言った。
「明日の午後に呼んでる。一緒に教えてくれる?」
「うん」ソルテは短く答えた。それから、少し間を置いて付け加えた。「ナヤに、最初に教えたいことがある」
「何を?」
「精霊は、名前を呼ぶと、少し近くなる。——それだけで、だいぶ違う」
アルテは微笑んだ。確かにそうだった。炉端妖精、葉陰妖精、光芒妖精——名前を知ることは、相手を知ることの始まりだった。ナヤにはきっと、それが一番先に必要なことだ。
夜、アルテは暖炉の前に座って手記を開いた。今日はロアンの話のことを書きたかったが、どこから書けばいいか、しばらく考えた。
「ロアン先生が北を出た理由を、今日初めて聞いた。見えていたことを書かなかった、という話だった。その後どうなったかを知ろうとしなかった、という話でもあった。
先生は『向き合えるかもしれない』と言った。かもしれない、という言葉が、正直だと思った。できると言わなかった。でも、できないとも言わなかった。そのあいだにある言葉を、先生はちゃんと選んでいた。
わたしも、かもしれない、をもっと大切にしようと思う。できると言い切れないことは、まだたくさんある。でも、できないと決めてしまうには、まだ早い
炉端妖精がいつものように現れた。冬になってから、暖炉の火がよく燃えるせいか、妖精の揺らぎも少し大きくなった気がする。アルテはその温かさに手を近づけながら、囁いた。
「おやすみ。——明日、ナヤが来るから、よろしくね」
妖精はひとめぐりして、ゆっくりと暖炉の奥へ消えた。冬の夜は長く、静かで、それでも暖かかった。




