水都の夜明け
光の祭りは、年に一度だけある。
水路に花を流し、神殿の尖塔に灯りを掲げ、街全体が夜通し光に包まれる。アルテが物心ついた頃から毎年繰り返されてきた祭りで、これまでは「きれいな夜」以上の意味を考えたことがなかった。でも今年は、少し違う気がしていた。
「何を考えてる?」
橋の欄干に並んで寄りかかっているミラが、横目でアルテを見た。二人の足元では運河がゆるやかに流れ、その水面に、上流から流されてきた花弁がいくつも浮かんでいた。白い花、淡紅の花、黄色い小花。
「去年と同じ祭りなのに、全然違う気がする、と思って」
「何が違うの?」
「わからない。でも——見えてるものが増えた気がする。花だけじゃなくて、花の向こう側にあるものが」
ミラは少し考えてから言った。「それって、大人になってるってことじゃないの」
「十五歳で大人?」
「年齢じゃなくて」ミラは笑った。「気持ちが、ってこと」
アルテはその言葉を胸の中で転がした。気持ちが大人になる。それがどういうことか、まだはっきりとは分からない。ただ、何かが少しずつ変わっているのは、確かだった。
◆ ◆ ◆
祭りの夜、神殿の広場は人でいっぱいだった。
街の人々が思い思いの灯りを持ち寄り、大神官の祈祷を聞くために集まっている。アルテは毎年この場で、セレーヌの隣に立つ。今年も同じだったが、今年だけは、広場の端にいくつかの見慣れた顔を見つけた。
難民区の人々だった。エダ老婆が、周りの人に遠慮がちに寄り添いながら立っている。その隣に、焦げ茶の短い髪。ナヤだ。人混みの中で少しだけ背伸びをして、神殿の尖塔を見上げていた。
アルテは小さく手を振った。ナヤは気づいて、手を振り返すかどうか一瞬迷い、それからごく小さく振った。それだけで十分だった。
セレーヌが祈祷を始めた。
長年聞き慣れた言葉だったが、今夜のセレーヌの声は、どこかいつもと違う響きを帯びていた。年齢を感じさせる声だったが、その底に、若い頃の自分への語りかけのようなものが滲んでいる気がした。アルテだけがそう感じているのか、それとも広場の誰かにも伝わっているのか、分からなかった。
祈祷が終わると、神殿の尖塔に一斉に灯りが点された。白い光が上から下へと広がり、水面に映って街全体が揺れるような光に包まれる。広場から小さな歓声が上がった。
アルテは光の中に立ちながら、そっと目を閉じた。
精霊たちの声が、波のように寄せてくる。祭りの夜はいつも精霊が集まりやすい。今夜は特に、何百という光の粒が街の上を漂っているのが感じられた。その中に、根域で聞いたものに似た、深くて静かな脈動も混じっていた。あの光の源が、この街の灯りに呼応して、遠くから揺れているのかもしれない。
——ここにいる、と光たちが伝えてくる。
「知ってる」アルテは心の中で答えた。「わたしもここにいる」
◆ ◆ ◆
祭りの後半、アルテはエランを見つけた。広場の外れ、人の少ない石段に座り、遠くの灯りを見ていた。
「一人?」
「ああ。——賑やかな場所は、少し苦手だ」
「知ってる」アルテはその隣に座った。「前から気づいてた」
「気づいていたなら、声をかけなければよかったのでは」
「声をかけたくて来たから」
エランは少し黙り、それから小さく笑った。笑い方が、最初の頃よりずっと自然になっていた。
「カトは?」アルテは尋ねた。
「市場の方にいる。祭りの夜は警戒が緩む場所があるから、と言っていた」
「仕事熱心だね」
「あの人はいつもそうだ」エランは灯りの方を見ながら言った。「——カトの話を、少し聞いたことがある。昔、村を捨てなければならなかった時のこと。それから冒険者になった経緯を」
「話してくれたの?」
「話してくれた、というより、一度だけ、ぽつりと言ったのを聞いた。——あの人も、帰る場所を探してここに来たんだと思う。今もまだ、探している気がする」
アルテは運河の灯りを見つめた。花弁が光の中を漂って流れていく。
「この街は」アルテはゆっくりと言った。「なんでか、そういう人が来る気がする。帰る場所を探してる人が」
「お前がいるからかもしれない」エランが静かに言った。
「わたし?」
「聖女がいるから、という意味ではなく。——アルテがいるから、という意味で」
アルテはその言葉の意味を、すぐには返せなかった。しばらく二人とも黙っていた。石段の下を、子供たちが笑いながら駆け抜けていった。
「エラン」アルテはやがて言った。「守れなかった人のこと、名前を聞いてもいい?」
「……セイ、という」エランは静かに言った。「同じ師に学んだ、二つ年上の人だった」
「そっか」
「お前が聞くとは思わなかった」
「名前を知らないと、思い出せないから」アルテは言った。「わたしも、ちゃんと覚えていたい」
エランはしばらく黙った。それから、ほんの少しだけ、肩の力が抜けるような気配がした。
「——ありがとう」
その「ありがとう」は短かったが、重かった。アルテは黙って頷いた。
◆ ◆ ◆
深夜、神殿に戻ると、廊下でロアンとすれ違った。珍しく、写本ではなく何も持っていなかった。
「祭りを見ていたんですか」アルテは尋ねた。
「少しだけ」ロアンは短く答えた。それから付け加えた。「——セレーヌ様の祈祷を、久しぶりにちゃんと聞いた」
「久しぶりに?」
「毎年どこかで聞いているが、ちゃんと聞いたのは久しぶりだ。今年は、少し違った」
「わたしもそう思いました」
ロアンは頷いて、また歩き始めた。アルテは声をかけた。
「先生。北の話——いつか、聞かせてもらえますか。訳あって出た、という話を」
ロアンは立ち止まった。振り返らないまま、少し間を置いて言った。
「冬になったら」
「冬に、何かあるんですか」
「何もない。ただ——冬の方が、昔の話をしやすい気がする」
アルテは思わず笑った。「わかりました。冬まで待ちます」
ロアンはそれきり歩き去った。その背中が、いつもよりほんの少しだけ軽く見えた。
◆ ◆ ◆
祭りの片付けが終わった頃、ソルテが薬草園の隅でひとり空を見上げていた。アルテが近づくと、ソルテはすぐに気づいた。
「アルテ。気配、今夜はやわらかい」
「祭りだからかな」
「ちがう」ソルテは空を見たまま言った。「アルテが、やわらかい」
アルテはその言葉を、そのまま受け取った。否定する気にはなれなかった。今夜の自分は、確かに何か丸いものを内側に持っているような気がしていた。
「ソルテは、今夜楽しかった?」
「楽しいは、よくわからない」ソルテは正直に言った。「でも、いい気配がたくさんあった。ミラが笑ってた。エランが少し、かたくなかった。ナヤも来てた」
「気づいてたんだ、ナヤのこと」
「気配、覚えてる。前に会った時から。——あの子、精霊と話せる。まだ上手じゃないけど」
「うん。これから少しずつ教えようと思ってる」
「わたしも教えていい?」ソルテがアルテを見た。「植物の精霊のことは、わたしの方が知ってる」
「もちろん。一緒に教えよう」
ソルテは小さく頷き、また空を見上げた。二人並んで、しばらく夜空の光を見上げた。精霊の粒が、祭りの余韻のようにまだ漂っている。ソルテはそれをひとつひとつ、目で追いかけていた。
夜明け近く、アルテはようやく自室に戻った。祭りの熱気がまだ街に残っているが、神殿の中は静かだった。アルテは窓を開けて、冷えてきた夜風を入れた。運河の水面に、消えかけた灯りがひとつ映っていた。
手記を開き、今夜のことを書こうとして、ふとペンを止めた。書くべきことが多すぎるのではなく——書かなくてもいいかもしれない、と思ったのだった。今夜のことは、言葉にしなくても、ちゃんと自分の中にある気がした。
それでも、ひとつだけ書いた。
「セイ、という名前を、今夜初めて知った。エランが守れなかった人の名前。名前を知らないと、思い出せない——そう言ったのはわたしだが、そのことが今も胸に残っている。
知ることと、覚えることと、忘れないことは、きっと全部違う。でも全部、大事だと思う」
炉端妖精がいつものように現れた。今夜の妖精はいつもより少し大きく揺れていた。祭りの夜の余韻かもしれない。アルテは光の珠を灯し、そっと囁いた。
「おやすみ。——今夜は、いい夜だった」
妖精はゆっくりとひとめぐりして、それから暖炉の奥へ消えた。アルテは布団に潜り込み、目を閉じた。街はまだ少しだけ明るくて、運河の水音が遠く聞こえていた。




