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光の選択

雨は翌朝には上がっていた。


水路が増水していて、いつもより水音が大きい。神殿の中庭には昨夜の雨粒が石畳の隙間に残り、朝陽を受けてきらきらと光っていた。アルテは課業の前に、ひとり中庭に出て深く息を吸った。空気が洗われていて、どこまでも澄んでいた。


「アルテ」


ミラの声だった。珍しく早い時間で、しかも息が少し上がっていた。


「どうしたの、走ってきたの?」


「ちょっと、話したくて」ミラは立ち止まり、少し迷うように視線を落とした。「今、いい?」


「もちろん」


二人は中庭の端、花壇の前に並んで立った。雨上がりの花は水を含んで重そうで、それでも顔を上げていた。


「あたし、決めたことがあって」ミラは言った。「——薬草の勉強を、もっとちゃんとしたい」


「薬草?」


「難民区に行くたびに、具合の悪い人がいるでしょ。で、神殿から薬を届けることもあるけど、あたしは何もできなくて。ただ物を運ぶだけで。——ずっともやもやしてたんだけど、ソルテと話してて、気がついた」


「ソルテと?」


「ソルテって、植物の気配を感じるじゃない。それで薬草園の世話をしながら、どの草がどんな力を持つか、すごく細かく知ってるの。あたし、ソルテに教えてもらいながら、ちゃんと薬草学を学びたい。できれば、治療もできるようになりたい」


アルテは少しの間、ミラの横顔を見ていた。


「神殿の外で、学ぶ場所を探してるの?」


「ここでも学べるけど——街に、薬師の工房があるでしょ。そこの人に弟子入りできないか、相談してみようかと思って」


「それは、神殿を出るっていうこと?」


ミラは少し黙った。「出るっていうか——昼間だけ、外で学んで、夜は戻ってくる、みたいな形ができたらと思ってる。でも、それが許されるかどうか分からなくて。まず、アルテに話してみようと思った」


アルテは花壇の花を見つめた。それからミラを向いた。


「応援する。絶対に」


ミラが顔を上げた。「怒らない?」


「何で怒るの」


「なんか、離れてくみたいで。アルテが寂しいかなって」


アルテは思わず苦笑した。「ミラ、昼間いなくなるだけでしょ。どこか遠くへ行くわけじゃない」


「うん……そうだね」ミラはほっとしたように息をついた。「よかった。なんか、言い出せなくて」


「ずっと考えてたの?」


「うん。アルテが根域に行ってる間も、ずっと。——あたし、アルテみたいに精霊使いでも聖女でもないし、ソルテみたいに特別な感覚があるわけでもない。でも、できることを見つけたくて」


その言葉の重さを、アルテは静かに受け取った。ミラがずっとここで、自分の場所を探していたこと。派手な役割ではなくても、自分の手で何かをしたかったこと。


「セレーヌ様に話してみよう」アルテは言った。「一緒に相談しに行く」


「一緒に来てくれるの?」


「当たり前でしょ」


◆ ◆ ◆

セレーヌはミラの話を、静かに最後まで聞いた。


「薬師の工房への弟子入りを望む、ということですね」


「はい」ミラは緊張した声で言った。「もし許されるなら」


「許されるなら、ではなく」セレーヌはおだやかに言った。「あなたが望むなら、です。神殿はあなたを縛る場所ではない」


ミラが少し目を丸くした。セレーヌは続けた。


「街の薬師組合とは神殿も長い付き合いがある。紹介状を書きましょう。弟子入りの話は、わたしから先に話を通しておきます」


「そんな、セレーヌ様にそこまでしていただかなくても——」


「難民区の人々の手助けをしたいと言うのでしょう。それは神殿の使命とも重なります。あなたが学ぶことは、神殿のためにもなる」セレーヌは静かに微笑んだ。「——それに、あなたが自分で決めてここに来たこと。それが何より嬉しい」


ミラは深く頭を下げた。その目が赤くなっているのを、アルテは見ないふりをした。


◆ ◆ ◆

午後、アルテは一人で難民区へ向かった。ナヤのところへ、約束通り話をしに行くためだった。


区の入り口でナヤはすでに待っていた。待っていたくせに、待っていなかったような顔をしているのが、いかにもナヤらしかった。


「来た」


「来たよ。——場所、どこがいい? 座れるところがあれば」


ナヤは黙って歩き出し、区の外れの、崩れかけた石垣の前に連れて行った。石垣の陰は風が当たらず、陽が差し込んでいた。ナヤは石垣に背をつけて座り、アルテもその隣に腰を下ろした。


「精霊のこと、教えるって言ってた」ナヤは単刀直入に言った。


「うん。まず聞かせてほしいんだけど、ナヤにはどんなふうに見えてる?」


ナヤはしばらく考えた。「光の粒、みたいなの。大きさが違う。ちっちゃいのはよく飛んでて、大きいのは動かない。触れないけど、近くにいると温かい気がする」


「触ろうとしたことがある?」


「ある。子供の時、毎日やってた。でも、すり抜けた。——でも、嫌そうじゃなかった」


「嫌そうじゃなかった、か」アルテはその言い方が好きだと思った。「それ、正しいと思う。精霊は、嫌な人間には近づかない。ナヤのそばにいるということは、ナヤのことを嫌いじゃないってことだよ」


ナヤは少し黙った。「名前、あるの?」


「精霊に? ある。種類によって違う。ナヤのそばをよく飛んでる、小さいやつは——」アルテは周囲を見渡した。石垣の陰に、薄い光の粒が三つ四つ、ゆっくり漂っていた。「あれは葉陰妖精。森の近くや、植物のそばが好き」


「葉陰妖精」ナヤは繰り返した。初めて聞く言葉を、口の中で確かめるように。


「うん。あと、夜に話しかけてるのは?」


ナヤがぴたりと動きを止めた。アルテは慌てて付け加えた。


「エダさんから聞いた。怖いことじゃないから、教えてほしかっただけ」


ナヤはしばらく黙ったまま、石垣の苔を指でなぞっていた。それから、ぽつりと言った。


「暗いところが好きな、でもあったかいやつ。炎みたいな色してる」


アルテは息を呑んだ。「炉端妖精だ」


「そういう名前?」


「うん。暖炉とか、火のそばにいることが多い。——でも、火がなくても現れることがある。居心地のいい場所が好きで、居心地のいい人のそばに来ることもある」


ナヤはまた黙った。今度は少し長い沈黙だった。


「お父とお母がいなくなってから、来るようになった」ナヤは静かに言った。「最初は怖かった。でも、話したら——返事はしないけど、揺れた。それから毎晩来る」


アルテは何も言わなかった。言葉より先に、胸が痛くなった。


一人でいる子供のそばに、炉端妖精が来ていた。返事はしなくても、揺れることで答えていた。——精霊は、嫌な人間には近づかない。ナヤがどれだけ誠実に、まっすぐに生きてきたか、その一事だけでわかる気がした。


「ナヤ」アルテは静かに言った。「あの子たちは、ナヤのことが好きなんだよ。だから来る」


ナヤは答えなかった。石垣の苔をなぞる指が、一度だけ止まった。


「——また来てもいい?」アルテは尋ねた。「精霊のこと、もっと話したい。ナヤが話したければ、でいいから」


しばらく間があった。


「来ていい」ナヤはぼそりと言った。「——毎日来てもいい」


それはたぶん、ナヤにとって大きな言葉だった。アルテはそれを、静かに受け取った。


◆ ◆ ◆

神殿への帰り道、エランが城門のそばで立っていた。


「また難民区か」


「うん。ナヤのところ」


「どうだった」


「——炉端妖精が、ナヤのそばに来てた。両親を亡くしてから、ずっと」


エランは少し黙った。夕陽が水路を橙色に染めていた。


「そういう話を聞くと」エランはゆっくりと言った。「精霊というのは、案外人間に近いものだな、と思う」


「近いというか——人間と一緒にいたい、んじゃないかな。精霊の方も」


「そうかもしれない」エランはしばらく水路を見ていた。「——俺の後悔の話、少しだけしてもいいか」


アルテは息を止めた。先日、エランが途中で止めた言葉のことを、ずっと気になっていた。


「聞く」


エランは前を向いたまま言った。「剣を置いた理由は、怪我だと言った。それは本当のことだ。でも、それだけじゃない」


「うん」


「俺が守れなかった人がいた。仲間だった。同じ師に剣を習って、同じ目標を持っていた。ある依頼で——俺の判断が遅れて、その人が死んだ。怪我はその後の話だ」


アルテは黙って聞いていた。


「剣を置いたのは、怪我のせいにした方が楽だったからだ。理由が一つの方が、説明しやすい。自分自身にも」エランは静かに言った。「でも本当は、剣を持つたびにその顔が浮かんで、動けなかった」


「今は?」


エランは少し間を置いた。「——今は、少し、動ける」


「何が変わったの」


「わからない」エランは短く言った。それから、ほんの少し間を置いて付け加えた。「——お前が根域から帰ってきた日、俺は初めてちゃんと剣の柄を握れた気がした。なぜかは、わからない」


アルテは何も言わなかった。言葉を探したが、見つからなかった。ただ、エランの隣に立ち続けた。夕陽が二人の影を長く伸ばし、水路の向こうへ落ちていく。


やがてエランが、ごく小さな声で言った。


「話して、少し楽になった」


「うん」アルテは静かに答えた。「ありがとう、話してくれて」


その夜、アルテは手記を開いた。今日は書くことが多すぎて、どこから始めるか迷わなかった。ミラのことから書いた。それからナヤのこと。それからエランのことを書いて、ペンを置いた。


「今日、三人がそれぞれ何かを話してくれた。ミラは自分の進む道を。ナヤは炉端妖精のことを。エランは守れなかった人のことを。三人とも、きっと簡単には言えない言葉だったと思う。


わたしにできることは、聞くことだけだったかもしれない。でも、聞くことは何もしないことじゃないと、今日は思えた。誰かの言葉を受け取る場所でいられることも、光の使い方のひとつなのかもしれない」


炉端妖精がいつものように現れた。アルテはその小さな炎色の揺らぎを見ながら、ナヤのことを思った。今夜もあの石垣の陰で、あの子はこれと同じ存在と話しているだろうか。


「おやすみ」アルテは囁いた。「——ナヤのところの子にも、よろしく伝えておいて」


妖精はひとめぐりして、暖炉の奥へと消えた。

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