セレーヌの告白
雨が降っていた。
珍しく、朝から本降りだった。運河の水面に雨粒が跳ね、石畳が暗く濡れていた。課業は室内になり、アルテは写本室で古い祈祷文の写しをとっていた。ロアンは今日も何かを調べている。二人とも黙っていたが、その沈黙は以前より穏やかだった。
午後になって、セレーヌから呼び出しがあった。
「今日は、少し話があります」
使いのミラが言ったのはそれだけだったが、その言い方がいつもと違った。急いでいる様子でもなく、怒っている様子でもない。ただ、何か決めてきたような静けさがあった。
◆ ◆ ◆
セレーヌの私室は、大神官の執務室とは別にあった。アルテはこの部屋に通されたことが、これまでの人生でほとんどない。執務室が「大神官セレーヌ」の場所だとすれば、ここは「人としてのセレーヌ」の場所だった。小さな暖炉、年季の入った安楽椅子、窓辺に置かれた花の鉢。本棚には写本と並んで、見慣れない表紙の本が何冊かある。
「座りなさい、アルテ」
セレーヌは暖炉のそばに座っていた。膝に薄い布が掛かっていて、それが今日のセレーヌを、いつよりも少し老いて見せていた。アルテは向かいの椅子に浅く腰を下ろした。
「ロアンから、何か聞きましたか」セレーヌが先に言った。
「写本室で、白光の精体の記録を見せてもらいました。先生が出しておいてくれたものを」
「そう」セレーヌは小さく息をついた。「あの人は、いつも先回りする。困った人ね、まったく」
その言い方には、怒りも困惑もなく、ただ長い付き合いの中で育まれた、温かい呆れがあった。
「では、少し説明の手間が省けました」セレーヌは膝の布に手を置いたまま、静かに話し始めた。「わたしが十七歳の時のことです」
◆ ◆ ◆
セレーヌが十七歳の年、ゲルアラントは今より小さく、神殿もまだ今の半分の規模だった。当時の大神官は厳格な老人で、セレーヌは見習いの一人に過ぎなかった。
「精霊使いではありましたが、光の聖女ではなかった。わたしはただの、少し感応の強い見習いでした。黒の根域にも、近づいたことすらなかった」
その年の秋、神殿の写本室に古い封印文書が届いた。北の神殿から送られてきた写しで、内容は黒の根域に関する古い記録だった。当時の大神官はそれを読んで顔色を変え、特定の者以外は近づくなと命じた。
「わたしは好奇心から、一人でその文書を読みに行った。今思えば、ひどく無謀なことです」
「何が書いてあったんですか」
「根域の奥に、何か大きな光の源がある、という記録でした。そして——そこを最後に訪れた聖女の手記も。その聖女は、根域の奥で白い光の存在に会ったと書いていた。白光の精体、とは書いていなかったけれど、明らかに同じものの話でした」
セレーヌは少し目を細めた。遠いものを見る目だった。
「文書を読み終えて写本室を出たとき、廊下に——いたんです」
「白い精霊が?」
「廊下の突き当たり、窓のそばに。人の形をしていたけれど、輪郭がぼんやりとしていて、ただただ白く光っていた。わたしが歩み寄っても逃げなかった。でも声はなかった。ただ、見ていた」
アルテは息を詰めながら聞いていた。
「わたしは怖くなかった。むしろ——懐かしい、と思った。会ったことのない何かを、懐かしいと感じた。おかしいでしょう」
「おかしくないと思います」
「そう」セレーヌは微笑んだ。「あなたがそう言ってくれると、少し楽になります」
それからセレーヌは続けた。その白い存在と、言葉ではない何かで対話したこと。相手が何百年もの眠りの後に目を覚ましたばかりで、まだ十分に顕現できる状態ではなかったこと。そして——セレーヌが大神官への道を選ぶかどうか迷っていたその時、その存在が何かを後押しするように揺らいで、消えたこと。
「それきり、現れなかった」
「ずっと?」
「ずっと。何十年も」セレーヌの声は静かだったが、その静かさの底に、長い年月の重みがあった。「わたしは大神官になって、精霊の研究を続けて、いつかまた会えると思いながら——でも来なかった。ロアンが古い記録を調べ始めたのも、わたしが頼んだからです。あの人がここにいるのは、もとをただせばわたしが、北の神殿に連絡を取ったことがきっかけでした」
アルテはしばらく黙った。
ロアンが北の連合国から来た理由。書簡が届く相手がいる理由。そして、写本室に白光の精体の記録が出してあった理由。——全てが、一本の線で繋がっていた。
「セレーヌ様は」アルテはゆっくりと言った。「その白い精霊を、今も待っているんですか」
「待っている、というより」セレーヌは少し考えて言い直した。「——目を覚ましてほしいと、思っています。わたしのためではなく。あの存在が、長い眠りの中にいるのは、苦しいことだと思うから」
「苦しい?」
「意識があるのに、誰とも繋がれない状態を想像してみて。それを何十年、何百年と続けていたとしたら」
アルテは、根域の奥で聞いた声を思い出した。——さびしい。ながいあいだ、ひとりだった。
「黒の根域の光の源と、その白い精霊は——同じ場所にいるのかもしれない」アルテは静かに言った。
セレーヌが、初めてはっきりとアルテを見た。
「わたしも、そう思っています。だから——あなたが根域へ行くと聞いた時、止められなかった。止めるべきではない、と思った」
「それで、見送ってくれたんですね」
「必ず帰ってきなさいと言ったのは、本当のことだけれど」セレーヌは微かに目を伏せた。「行ってきなさいと言えなかったのは、わたしの弱さです」
二人の間に、雨音だけが残った。暖炉の火が小さく爆ぜ、揺れる。アルテはその炎を見つめながら、やがて口を開いた。
「次に根域へ行く時、一緒に行きますか、セレーヌ様」
セレーヌは少し驚いたように目を上げた。アルテは続けた。
「白い精霊は、セレーヌ様を知っています。だとしたら——わたしより、セレーヌ様の方が、あの存在を目覚めさせる鍵を持っているかもしれない。わたしは、そのそばにいます」
セレーヌはしばらく何も言わなかった。それから、ゆっくりと、確かめるように言った。
「……考えさせてください」
「もちろんです」
「でも」セレーヌは膝の布をそっと整えながら言った。「——ありがとう、アルテ」
その「ありがとう」は、アルテがこれまで聞いた中で、一番重くて、一番柔らかいものだった。
◆ ◆ ◆
部屋を出ると、廊下にロアンが立っていた。壁にもたれ、腕を組んで、どこかを見ていた。アルテの足音に気づいて、ちらりと視線を向ける。
「聞きましたか」アルテは言った。
「廊下にいたからな」
「盗み聞きですか」
「扉を閉めなかったのはセレーヌ様だ」ロアンは素っ気なく言った。「——どうだった」
「全部、繋がりました」アルテは静かに答えた。「先生がここにいる理由も、あの記録を出してくれた理由も」
ロアンは何も言わなかった。ただ、腕を解いて、廊下の奥へと歩き出した。アルテはその背中を見ながら、小さく言った。
「ありがとうございます、ロアン先生」
ロアンは振り返らなかった。けれど、歩く速度がほんの少しだけ緩んだ。それがロアンの返事だと、アルテにはもう分かっていた。
夜、雨はまだ続いていた。アルテは窓を少し開けて、雨の匂いを吸い込んだ。運河の水が増していて、いつもより大きな音を立てていた。
「セレーヌ様の話を聞いて、わたしは何かを受け取った気がする。それが何なのか、まだうまく言葉にできない。ただ——人が何かを待ち続けるということ、誰かのために先回りし続けるということ、その重さを、今日少しだけ知った。
白い精霊がまだ眠っているなら、いつかわたしたちで会いに行こうと思う。セレーヌ様と一緒に。それがいつになるかはわからないけれど、わたしはもう、急いでいない。大事なことは、ちゃんと時間をかけていい」
炉端妖精がいつものように現れた。今夜の炎は雨のせいか少しだけ湿った色で、それでも温かかった。アルテは光の珠を灯し、そっと囁いた。
「おやすみ。——眠っている誰かにも、届くといいな」
妖精はひとめぐりして、消えた。雨音の中、アルテはゆっくりと目を閉じた。




