難民区の少女
難民区は、水都の南側にある。
運河の外縁に沿って広がるその一帯は、正確には「仮設居住区」という名称だったが、誰もそう呼ばなかった。七か国戦争の余波で故郷を失った人々が流れ着き、もう三年が経っている。仮設のはずの小屋は雨風にさらされながらも立ち続け、今では子供の声まで聞こえるようになっていた。
アルテが最初にここを訪れたのは、まだ肌寒い季節のことだった。あの時出会った少女——焦げ茶色の髪を短く切り、泥のついた膝をして、アルテをまっすぐに見上げていた子——が、また脳裏に浮かぶことがあった。
「ここまで来るのは、ひさしぶりですね」
隣を歩くのはミラだった。今日は二人で、神殿の定期的な支援物資を届けに来ていた。大きな籠を一つずつ持ち、石畳から土の道へと変わる境目を踏み越えた。
「前に来たのが、半年前くらいだったかな」ミラは籠を両手で持ち直しながら言った。「来るたびに、人が増えてる気がする」
「そうだね。北の戦線が長引いているって、フレンツさんが言ってた」
「ここの人たちは、どこへも行けないの?」
「帰る国が、もう……ない人も、いるから」
ミラは黙った。それきり二人とも、しばらく口を開かなかった。
◆ ◆ ◆
支援物資を届ける小屋は、区の外れにあった。世話役の老婆が毎回受け取ってくれるのだが、今日は顔が見えない。アルテが声をかけると、小屋の裏から子供の声がした。
「誰?」
「神殿から物資を届けに来ました。エダさんはいますか」
しばらく間があって、小屋の陰から顔が出た。焦げ茶色の短い髪。泥のついた膝。——あの時と、少しも変わっていないように見えた。
「……あんた、前に来た人」少女は言った。
「覚えていてくれたんですね」
「覚えてる。光が出てた」少女はアルテの手元を見た。「また出てる」
アルテは自分の手を見た。光芒妖精が一体、指先のあたりをふわふわと漂っていた。少女の視線が、その光を追いかけるように動く。
「見えるの?」アルテは静かに尋ねた。
「見える」少女は当然のように答えた。「ずっと見えてた。あっちにも、そっちにも、いっぱいいる」
アルテとミラが同時に顔を見合わせた。
ミラは小声で言った。「ソルテみたい」
「うん」アルテは小声で返し、それから少女に向き直った。「名前、聞いてもいい?」
少女は少し警戒するように眉をひそめ、それからぽつりと言った。「ナヤ」
「ナヤ。わたしはアルテ。こっちはミラ」
「知ってる。聖女様でしょ」
「呼び捨てでいいよ。アルテって」
ナヤはまた少し黙り、それからまた光芒妖精に視線を戻した。精霊に惹きつけられる目だった。ただの好奇心ではなく、もっと根っこに近い、引き寄せられるような目。
◆ ◆ ◆
世話役のエダ老婆は、裏の井戸で水を汲んでいた。物資を渡しながら、アルテはそっと尋ねた。
「ナヤは、ここに来てどのくらいになりますか」
「二年ほどかね」エダは籠を受け取りながら、しわがれた声で言った。「家族は北の戦線で——お父が亡くなって、お母も去年の冬に。今は一人でここにおる」
「一人で」
「気丈な子じゃよ。泣き言を言わん。言わなさすぎて、心配なくらい」エダは目を細めた。「あの子、変わっとる。虫や鳥が近づいてくるし、暗いところでも迷わない。何か見えとるんじゃないかと思うとったが——」
「精霊が見えているみたいです」アルテは静かに言った。「生まれつきの才かもしれません」
エダは少し驚いたように目を上げ、それからゆっくりと頷いた。「そうかい。——そうかい、それなら、あの子が毎晩暗い隅っこで何かと話してるのも、合点がいく」
「話してる?」
「ひとりごとみたいに、ぼそぼそと。でも、ちゃんと誰かに話しかけるような口ぶりでね。最初は心配したけど、顔は穏やかだったから、まあいいかと思っとったんじゃ」
◆ ◆ ◆
帰り道、ナヤが少しだけ後をついてきた。アルテが振り返ると、少女は道の端でぴたりと止まった。ついてきたわけではない、という顔をしながら、明らかについてきていた。
「また来てもいい?」アルテは尋ねた。
ナヤはしばらく考えてから、短く言った。「来てもいい」
「次は、精霊のことを少し教えてあげる。ナヤが見えているもののこと」
少女の目が、わずかに動いた。興味を隠しきれない目だった。
「……知りたい」ナヤはぼそりと言った。「なんで見えるのか、ずっとわからなかった」
「わたしも、最初はわからなかったよ」アルテは笑った。「でも、一緒に考えることはできる」
ナヤは答えなかった。けれど、アルテが歩き出すと、区の入り口まで黙ってついてきた。そこで足を止め、二人が遠ざかるのをじっと見送っていた。
ミラが小声で言った。「どうするの、あの子」
「どうするって?」
「神殿に、連れてくる気?」
アルテは少し考えた。「まだわからない。でも——ナヤが望むなら、選択肢を見せてあげたい。精霊が見える力があって、それを誰にも説明してもらえないまま一人でいるのは、寂しいと思うから」
ミラは黙って頷いた。それから、ちらりと振り返った。ナヤはまだ区の入り口に立って、二人を見ていた。
◆ ◆ ◆
神殿に戻ると、エランが中庭で剣の素振りをしていた。以前よりも動きが滑らかになっている。アルテが話しかけると、エランは素振りを止めて汗を拭いた。
「難民区に行っていたのか」
「うん。物資の届け出。それと——また、あの子に会った」
「あの子?」
「前に一度話した、焦げ茶の髪の。精霊が見えるみたい」
エランは少し考えるように黙った。「ソルテと同じ類の感覚を持つということか」
「たぶん。でも、ソルテは神殿育ちで、周りに精霊使いがいた。ナヤは——ずっと一人で、意味もわからないまま」
エランはまた素振りを再開しながら、静かに言った。「お前はその子を、放っておけないだろう」
「……うん」
「それがお前らしいと思う」エランは前を向いたまま言った。「悪いことじゃない」
その言葉は短かったが、アルテにはそれで十分だった。
夜、アルテは手記を開いた。今日のことを書こうとして、ナヤの目のことが先に浮かんだ。精霊を追いかける時の、引き寄せられるような目。あれはかつて、アルテ自身もしていた目かもしれなかった。
「ナヤが見えているものを、ナヤ自身は誰にも説明してもらえないまま抱えてきた。それはどんな気持ちだったろう。わたしは生まれた時から神殿にいて、精霊のことを教えてくれる人がそばにいた。当たり前だと思っていたことが、当たり前ではない人もいる——そのことを、もっと早く気づくべきだったかもしれない」
炉端妖精がいつものように現れた。アルテは光の珠を灯しながら、ふとナヤのことを考えた。今夜も、難民区の暗い隅で、あの子は誰かと話しているだろうか。
「おやすみ」アルテは囁いた。「——ナヤにも、いい夢がありますように」
妖精はひとめぐりして、静かに消えた。




